Rewrite
2025年3月5日、藤原ヒロシが自身の『Instagram(インスタグラム)』に〈Jordan Brand(ジョーダンブランド)〉のAir Jordan 1 High ‘85 “Reverse Shadow(リバースシャドウ)”の写真を投稿すると、世界中のスニーカーフリークたちは一斉に沸き立った。
ここで、Air Jordan 1 High ’85 “Reverse Shadow”について少し解説しよう。90年代にAir Jordan 1ブームが到来し、日本のストリートファッション誌でカラバリなどの研究が盛んに行われていた時期に、とあるサンプルと思われる配色が右足だけ発見された。1998年のことである。それが、当時“黒灰”と呼ばれていたカラーとは切り替えが異なる配色であった、この“Reverse Shadow”だ。
最近では、赤黒を“Bred(ブレッド)”、白赤黒を“Chicago(シカゴ)”、黒青を“Royal(ロイヤル)”などと、通好みの呼び名で呼ばれるのが一般的だが、今風に言う“Reverse Shadow”は、当時の呼び方で言うなら“灰黒”と言っていいだろう。
この謎めく“灰黒”(Reverse Shadow)の実物モデルは、果たして本当に実在したのか。『Hypebeast』編集部が、当時の雑誌『Boon』に詳しい人物やAJ1コレクターに問い合わせたところ、「黒灰のデッドストックは見たことがあるが、灰黒は見たことがない」という回答だった。ただ、実際に、1984年に〈Nike(ナイキ)〉は、さまざまな未発売のサンプルカラーを制作し、チーム別注カラーも正式に受けるセールス戦略を取っていた。なので、この“灰黒”の有力な説としては、ジョージタウン大学のチームカラーとして作られたセールスマンサンプルではないか、という見方がある。だが、これまでは公式で〈Nike〉が認めたことはなかった。いずれにせよ、こうした謎が多いのもAir Jordan 1の魅力のひとつと言えるだろう。
そして2025年7月末日、この謎多き“灰黒”こと“Reverse Shadow”が、85シリーズ(Air Jordan 1のなかでももっとも忠実に復刻するライン)にて、〈Jordan Brand〉から正式に発売されることになった。
この記念すべきタイミングで、『Hypebeast』は、藤原ヒロシの声がけによって、あるレジェンドとの対談を実現することができた。そのレジェンドとは、90年前後に日本で最もAir Jordanを所有していたであろう『Labrador Retriever(ラブラドールレトリバー)』の中曽根信一だ。当時、人気に火がつく前からAir Jordan 1をひたすら買い付けていた彼だからこそ語れる、真実がある。
ここでは、Air Jordan 1の誕生からブームまでの道のりを、レジェンドたちの生の声と共に紐解いていく。
当時どこにでも売っていたのに、今は買えなくて、ずっと心に残っているもの
Hypebeast:ヒロシさんは、今回の対談相手として中曽根信一さんを指名されました。その理由は?
藤原ヒロシ(以下HF):Air Jordan 1のブームについて、みんな結構誤解しているような気がしているんです。というのも、90年代後半の裏原カルチャーで、Air Jordan 1が流行ったと思っている人が多いんですよね。でも実際、裏原時代は誰もジョーダンを履いてなかったんですよ。先日、NIGO®ともこの話をしたけど、彼も同じ認識でした。裏原カルチャーは、ジョーダンの時代じゃなかったんです。裏原ムーブメントの後に、リバイバルとして流行った側面もあるけれど、むしろ裏原の前、渋カジ時代の頃になるのかな、そこで一度ブームが来ているんです。だから、その時代の仕掛け人のひとりと思われる中曽根さんに話を聞いておこう、と思いました。
当時、Air Jordan 1がいかにして盛り上がったのかを、それを牽引していた中曽根さんのお話で紐解いていく、という感じですね。
HF:盛り上がったか、というかむしろ“どう盛り上がっていなかったか”かもしれないけど(笑)。
(笑)ではまず、おふたりのマイ・ファースト・エアジョーダンエピソードを聞かせてもらえますか?
HF:僕は1985年に発売された時点のオンタイムというより、少し後に履いていましたね。1987、88年ごろかな。ヒップホップが好きだったんですが、当時Run-D.M.C.(ラン・ディーエムシー)がアディダスを履いている一方で、LL・クール・Jがジョーダンを履いていたんです。僕はその流れでスニーカーを好きになりましたが、中曽根さんたちのスニーカーの流れからいくと、もともとはランニングシューズからのスタートですよね?
中曽根信一(以下SN):どうも、『Labrador Retriever』というショップを営む中曽根です。そうですね。80年代前半は、どこへ行ってもランニングシューズが人気でした。ナイキでいうと、BERMUDA(バミューダ)っていうモデル名のランニングシューズ。で、バスケットシューズというと、シンプルに室内履きのイメージだったんですよ。街履きではなく。
HF:僕、中学の時にバスケ部だったんですけど、そういえば体育館で履いているバッシュは、外で履かなかったな。
SN:ですよね。だから、当時街中で見かけるのは基本的にオールスターばっかり。でもね、84年からちょっと流れが変わってきたんです。『吉田カバン』の吉田克幸さんが、コンバースのウエポンをスタイルに取り入れ始めたんですよ。レイカーズカラーがオシャレだから、って感じで。
新事実の発覚です。ちなみに、1984-85年に登場したAir Jordan 1の人気はどうだったんですか?
SN:その頃、僕は渋谷のアメカジショップである『バックドロップ』のバイヤーだったんですが、アメリカでAir Jordan 1を見つけても、最初の間はしばらくはスルーしていました。バッシュは基本的に白のイメージだったんですよ。だから、Air Jordan 1で初めて、黒赤とか黒青とかを見た時、「履くかなぁ」っていう感覚だったんです。だからむしろ、ジョーダン系はスニーカーじゃなく、Tシャツとかジャケット類を積極的に買い付けていました。今、Air Jordan 1はデビュー当時からものすごいブームだったと思われている方もいるかもしれませんが、まったくそんなことなかったんですよ。
HF:日本では黒赤とかは、公式にインポートされてなかった気がします。おっしゃる通り、人気がなくて、僕はアメ横で、白のAir Jordan 1をセールのカゴで見つけたりしていましたよ。あと、『Beams 原宿』になぜか黒青が売っていて、それは買いました。でも、Air Jordan 2は、日本では見たことがないなあ。
SN:アメリカでは、Air Jordan 2は限られた店でしか販売されていなかったためにAir Jordan 2は見つからず、Air Jordan 1、Air Jordan 3、Air Jordan 4は見つけることができました。ただ、あまり積極的には買い付けていませんでした。あくまで、ランニングシューズの買い付けのついでって感じ。日本では、ニューバランスが大ヒットしていた頃だったので、むしろそっちを買い付けていましたね。
発売当初、本当にAir Jordan 1は売れてなかったんですね。
SN:1990年2月に『Labrador Retriever』をリニューアルオープンした時、お客さんが200メートルほど列を作って並んだんです。デッドストックのAir Jordan 1も19,800円で並べてたんですが、これが全く売れなかった(笑)。1足も売れなかったんですよ。つまり、まだ1990年前半の時点でも、火がついてなかったんです。この写真見てください。AJは売れないから、2段目においているんですよ。主役は、まだまだランニングシューズでした。
とはいえヒロシさんは、80年代後半から履いていたんですよね?
HF:そうですね。僕はスケーターで、スケートする時に履いていました。だから、Air Jordan 1は、バスケットシューズっていうよりは、スケートシューズでした。スケートボードをする僕らはお金がないから、安いシューズを買ってボロボロにしてたんです。そう、ジョーダンは安かったから。Air Jordan 1と思って、DUNKも買ってたりした。それもセールで売ってました。
その時、日本ではヒロシさんしか履いていなかった?
HF:いや、そんなことないですよ。ボーンズ・ブリゲート(※1980年代に全米で一世を風靡した天才スケートボード集団)の一番有名なビデオでもみんなAir Jordan 1を履いていて、マーク・ゴンザレスもAir Jordan 1を履いていて。だから、日本のスケーターで履いている人はいました。ただ、スケーターのテクニックで、スイッチはなかった時代から、(スケボーで)オーリーをすると左足だけボロボロになっている。うん。だから、グーフィー(右足を前にして滑るスタンス)の人と交換すると賢かったかも。国内でも、skatethingとか、t19(skate team)の人たちが履いていました。彼らはいつでもスタイリッシュでした。
Air Jordan 1って、いったい、いつ流行り始めたんでしょう?
HF:スケーターが実用として履いていて、スケーター以外にもスケートファッションというものが火がついた。そうすると、スケーターじゃなくても、スケートファッションが好きな人はAir Jordan 1をスタイルとして履きたくなるでしょ。その頃にみんな探しだして、中曽根さんのところに行って買っていたんだと思います。つまり、スケーターと、スケートファッションが好きな人が履いていたのが始まりかな。
1994年に、Air Jordan 1の復刻第1弾が出ています。おそらくその時点では、もうAir Jordan 1は大人気だったと思うのですが、具体的にはいつ爆発的にヒットし始めたんでしょう? 1992年ごろでしょうか?
SN:いや、僕の肌感としては、もっと前だね。90年の9月とかに、いきなりバーって売れ始めたのよ。
その要因って?
SN:実はそれがわからなくて。ただ、その90年9月から転売ヤーみたいな人もいっぱい『Labrador Retriever』に来た。あれだけ売れなかったのに、いきなりムーブメントになった。ファッション的なアプローチというより、カルチャー的な流れで来たのかもしれない。でもね、アメリカに行く度に、ゆっくり、少しづつ買い付けてきたジョーダンを、転売ヤーが僕の店で買い付け、近くの原宿で倍の値段で売っているのを見た時とかは本当に悔しかったね。90年9月にAir Jordan 1の人気が始まり、91年、92年、93年とかはずっと売れていました。
人気となるAir Jordan 5が90年に出ているので、その流れで、Air Jordanが見直されて火がついたってことはありますか?
HF:Air Jordan 5はめっちゃ売れたのでは?
SN:そうですね。確かに、Air Jordan 4がじわじわ人気が出て、Air Jordan 5でドカンとなった記憶はあります。でも、5が人気になった時点でも、Air Jordan 1はまだいっぱい残っていました。だから、突然Air Jordan 1が売れた理由を逆に教えて欲しいくらい。僕は当時、日本で一番Air Jordan 1の在庫を持っていたはずだから、「あの店に行けば、絶対にある」って思われていたと思います。イチローさんも買いに来てくれた記憶がある。
HF:ブームとしては、アメカジみたいなところじゃなくて、スケートボードがバーッとあって、その後、Hip Hopのムーブメントがきて、その核となったのがバスケットボールシューズ。だから、その流れかも。
人気が出る前から、中曽根さんが一生懸命コツコツ買い続けていた理由ってなんだったんですか?
SN:88年に『Labrador Retriever』の買い付けをアメリカで始めたんです。で、当時、鈴木大器(※エンジニアド ガーメンツのデザイナー)を初めてアメリカに連れて行ったことがあって。そして、とあるテニスショップで、DUNKやTERMINATORを大量に見つけたりして。25ドルだったかな。鈴木大器のセンスで、「こういうものは絶対買ったほうがいい」ってアドバイスがあり、それがずっと頭の中にあったからかな。ただ、その88年の『Labrador Retriever』のオープニングに、8800円でDUNKを大量に売り出したけど、それも1足も売れなかったんです。でも、めげずに、アメリカに行く度にちょこちょこ買っていました。8から10ハーフまでのサイズをね。
Air Jordan 1の都市伝説と秘話
一時期は背番号に合わせて23色存在していた説や実際は18色展開だった説、サンプルを含めると28色以上見かけたことがあるなど、いくつかのエピソードがあります。おふたりの見解は?
HF:そんなにないのでは? 当時は白か、黒赤、白赤黒、黒青しか知らなかった。ずっと意識はしていたけど、これ以外の色はほんと見たことなかったな。中曽根さんの『Labrador Retriever』では、いろんな色、売ってました?
SN:白赤黒はたくさんありましたよ。それから黒赤と黒青。あと、メタリックブルーのタイプとつま黒。そのほかの色はほとんど見なかったなぁ。実際、買い付けの際に、細かい配色はあまり意識はしていなかったですね。つま黒とかも、同じに見えていた感じでした。あとは、今回出るモデル(Reverse Shadow)の、普通のバージョンである黒灰もあったな。これね、最初ジョーダンとは思わずに、TERMINATORだと思ってた。だって、TERMINATORのカラーリングでしょ?
HF:僕らが履き始めたのも、結局オンタイムではない。スケートボードで消耗するから、常にAir Jordan 1のデッドストックを探していて。ただ、今ほど加熱しているわけじゃないから普通に買えていました。
今回復刻される“Reverse Shadow”の配色は、当時からご存知でした?
HF&SN:まったく知らない。
HF:日本に写真があったらしいよ。本当にオリジナルは存在したのかな。
出回っていた画像のタンのタグがゴールドだから、これってチーム別注じゃないですかね?
HF:うーん、わかんないな。
SN:僕は憶測で話せないんですが、実はサンプルだけを売っている店がニュージャージーにあったんですよ。ハワイにもあったかな。だから、そういう店に出てたものじゃないのかな?
改めて、Air Jordan 1の魅力ってなんでしょう?
HF:僕が考えるAir Jordan 1の魅力は、「当時どこにでも売っていたのに、ある日突然買えなくなって、それが今もずっと心に残っている」という、そのストーリー性なんですよ。本当に良いものって、最初から手の届かない場所にあったり、限定品として騒がれたりするものばかりじゃない。むしろ、僕らの日常の近くに溶け込んでいた「ごく普通の存在」の中から、時を経てその真価が再発見されることがある。
AJ2もAJ3もAJ4もAJ5も、もちろん素晴らしいスニーカーで、当時は手に入れるのが本当に大変でした。情報も少なかったし、見つけるのも一苦労。でも、Air Jordan 1だけは違った。アメ横や海外ではセールのワゴンに入っているのを見かけることだって珍しくなかった。僕らは『Labrador Retriever』に行けば、つまり中曽根さんのところに行けば、いつでも買えるっていう安心感みたいなものがありましたからね。それが、ある時を境にパタッと店頭から姿を消して、気づけばとんでもない価値を持つ「伝説」になっていった。この“いつでも買えたのに、いまは買えなくなった”っていう存在は、本当に良いものだと思う。
SN:出始めは、たしかに誰も見向きもしなかったのにね。でも、うちの店でいつでもあった。
HF:後になってその価値を再認識した時に、より強く心に残るんですよね。
ヒロシさんにとって「当時どこにでも売っていたのに、今は買えなくて、ずっと心に残っているもの」は、他にもあるんですか?
HF:うーん、パッと頭に浮かぶのは、ナイキのフットスケープと、ティファニーxロレックスかな。
貴重なお話をありがとうございました!
藤原ヒロシと中曽根信一、ふたりのレジェンドの対談から見えてきたのは、Air Jordan 1が発売当初は「伝説のスニーカー」ではなかったという、現代の認識とはかけ離れた意外な事実だった。中曽根氏の店では、(いまでは300万円はする)Air Jordan 1のデッドストックが19,800円でも1足も売れなかったというエピソードは、スニーカー史上最高の名作が、スタートは「売れないスニーカー」だったことを物語っている。
しかし、スケーターたちが、その安さと頑丈さから練習用のシューズとしてAir Jordan 1を履き潰し始めた。彼らが生み出すストリートカルチャーがメディアを通して広まるにつれて、スケーターではない層にも「スケートファッション」が浸透し、そのスタイルを象徴するアイテムとしてがAir Jordan 1が注目され始める。
そして、中曽根氏の言う「90年9月」という謎のタイミング。この時期、突如としてAir Jordan 1の需要が爆発的に高まった。Air Jordan 5のヒットが追い風になった可能性はあるものの、中曽根氏自身もその明確な理由が分からないという。
だが、ここで重要なのは、当時のAir Jordan 1は市場に普通に存在し、(探せば)誰もが手に取れる状態だった、という点だ。その潤沢な在庫が、スケーターやストリートカルチャーの担い手たちに浸透する土壌を作った。あまり見向きされなかったからこそ、大量に残っていた、という皮肉な見方もできるが、その買いやすさやリーズナブルさのおかげで、偶然にもストリートのアイコンとして再評価された。
Air Jordan 1は、初のエアシステムを搭載し、流行の最先端をいくはずのバスケットボールシューズであったが、ストリートカルチャーという予期せぬ場所で「再発見」され、その圧倒的な存在感と歴史が、後世のファンによって「伝説」へと昇華されていった。また、今回の“Reverse Shadow”のリリースは、単なるカラーバリエーションの追加に留まらないだろう。当時の試行錯誤の塊のようなこのセールスマンサンプルカラーは、実のところ公式かどうかも定かではなかった。それが、〈Jordan Brand〉から正式発売となったのだ。この出来事は、Air Jordan 1の底知れない魅力を思い出させ、その歴史の奥深さを静かに、しかし鮮烈に代弁する。そして何より、僕らのコレクター心を、いや、その根底にある深掘り心を最高にくすぐる、そんな1足になるに違いない。
Air Jordan 1 High ‘85 “Reverse Shadow” POP-UP STORE
開催期間:2025年7月31日(木)~8月2日(土)
会場:V.A.
住所:東京都渋谷区神宮前6-1-9
営業時間:10:00-20:00
【アイテム情報】
Air Jordan 1 High ‘85 “Reverse Shadow”
販売価格:37,400円(税込)
サイズ展開:23~28.5、29、30、31、32cm
*初日と2日目の入店は事前抽選制(受付期間は既に終了)。
8月2日(土)の入店に関しては『V.A.』の公式『Instagram』で告知予定。
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2025年3月5日、藤原ヒロシが自身の『Instagram(インスタグラム)』に〈Jordan Brand(ジョーダンブランド)〉のAir Jordan 1 High ‘85 “Reverse Shadow(リバースシャドウ)”の写真を投稿すると、世界中のスニーカーフリークたちは一斉に沸き立った。
ここで、Air Jordan 1 High ’85 “Reverse Shadow”について少し解説しよう。90年代にAir Jordan 1ブームが到来し、日本のストリートファッション誌でカラバリなどの研究が盛んに行われていた時期に、とあるサンプルと思われる配色が右足だけ発見された。1998年のことである。それが、当時“黒灰”と呼ばれていたカラーとは切り替えが異なる配色であった、この“Reverse Shadow”だ。
最近では、赤黒を“Bred(ブレッド)”、白赤黒を“Chicago(シカゴ)”、黒青を“Royal(ロイヤル)”などと、通好みの呼び名で呼ばれるのが一般的だが、今風に言う“Reverse Shadow”は、当時の呼び方で言うなら“灰黒”と言っていいだろう。
この謎めく“灰黒”(Reverse Shadow)の実物モデルは、果たして本当に実在したのか。『Hypebeast』編集部が、当時の雑誌『Boon』に詳しい人物やAJ1コレクターに問い合わせたところ、「黒灰のデッドストックは見たことがあるが、灰黒は見たことがない」という回答だった。ただ、実際に、1984年に〈Nike(ナイキ)〉は、さまざまな未発売のサンプルカラーを制作し、チーム別注カラーも正式に受けるセールス戦略を取っていた。なので、この“灰黒”の有力な説としては、ジョージタウン大学のチームカラーとして作られたセールスマンサンプルではないか、という見方がある。だが、これまでは公式で〈Nike〉が認めたことはなかった。いずれにせよ、こうした謎が多いのもAir Jordan 1の魅力のひとつと言えるだろう。
そして2025年7月末日、この謎多き“灰黒”こと“Reverse Shadow”が、85シリーズ(Air Jordan 1のなかでももっとも忠実に復刻するライン)にて、〈Jordan Brand〉から正式に発売されることになった。
この記念すべきタイミングで、『Hypebeast』は、藤原ヒロシの声がけによって、あるレジェンドとの対談を実現することができた。そのレジェンドとは、90年前後に日本で最もAir Jordanを所有していたであろう『Labrador Retriever(ラブラドールレトリバー)』の中曽根信一だ。当時、人気に火がつく前からAir Jordan 1をひたすら買い付けていた彼だからこそ語れる、真実がある。
ここでは、Air Jordan 1の誕生からブームまでの道のりを、レジェンドたちの生の声と共に紐解いていく。
当時どこにでも売っていたのに、今は買えなくて、ずっと心に残っているもの
Hypebeast:ヒロシさんは、今回の対談相手として中曽根信一さんを指名されました。その理由は?
藤原ヒロシ(以下HF):Air Jordan 1のブームについて、みんな結構誤解しているような気がしているんです。というのも、90年代後半の裏原カルチャーで、Air Jordan 1が流行ったと思っている人が多いんですよね。でも実際、裏原時代は誰もジョーダンを履いてなかったんですよ。先日、NIGO®ともこの話をしたけど、彼も同じ認識でした。裏原カルチャーは、ジョーダンの時代じゃなかったんです。裏原ムーブメントの後に、リバイバルとして流行った側面もあるけれど、むしろ裏原の前、渋カジ時代の頃になるのかな、そこで一度ブームが来ているんです。だから、その時代の仕掛け人のひとりと思われる中曽根さんに話を聞いておこう、と思いました。
当時、Air Jordan 1がいかにして盛り上がったのかを、それを牽引していた中曽根さんのお話で紐解いていく、という感じですね。
HF:盛り上がったか、というかむしろ“どう盛り上がっていなかったか”かもしれないけど(笑)。
(笑)ではまず、おふたりのマイ・ファースト・エアジョーダンエピソードを聞かせてもらえますか?
HF:僕は1985年に発売された時点のオンタイムというより、少し後に履いていましたね。1987、88年ごろかな。ヒップホップが好きだったんですが、当時Run-D.M.C.(ラン・ディーエムシー)がアディダスを履いている一方で、LL・クール・Jがジョーダンを履いていたんです。僕はその流れでスニーカーを好きになりましたが、中曽根さんたちのスニーカーの流れからいくと、もともとはランニングシューズからのスタートですよね?
中曽根信一(以下SN):どうも、『Labrador Retriever』というショップを営む中曽根です。そうですね。80年代前半は、どこへ行ってもランニングシューズが人気でした。ナイキでいうと、BERMUDA(バミューダ)っていうモデル名のランニングシューズ。で、バスケットシューズというと、シンプルに室内履きのイメージだったんですよ。街履きではなく。
HF:僕、中学の時にバスケ部だったんですけど、そういえば体育館で履いているバッシュは、外で履かなかったな。
SN:ですよね。だから、当時街中で見かけるのは基本的にオールスターばっかり。でもね、84年からちょっと流れが変わってきたんです。『吉田カバン』の吉田克幸さんが、コンバースのウエポンをスタイルに取り入れ始めたんですよ。レイカーズカラーがオシャレだから、って感じで。
新事実の発覚です。ちなみに、1984-85年に登場したAir Jordan 1の人気はどうだったんですか?
SN:その頃、僕は渋谷のアメカジショップである『バックドロップ』のバイヤーだったんですが、アメリカでAir Jordan 1を見つけても、最初の間はしばらくはスルーしていました。バッシュは基本的に白のイメージだったんですよ。だから、Air Jordan 1で初めて、黒赤とか黒青とかを見た時、「履くかなぁ」っていう感覚だったんです。だからむしろ、ジョーダン系はスニーカーじゃなく、Tシャツとかジャケット類を積極的に買い付けていました。今、Air Jordan 1はデビュー当時からものすごいブームだったと思われている方もいるかもしれませんが、まったくそんなことなかったんですよ。
HF:日本では黒赤とかは、公式にインポートされてなかった気がします。おっしゃる通り、人気がなくて、僕はアメ横で、白のAir Jordan 1をセールのカゴで見つけたりしていましたよ。あと、『Beams 原宿』になぜか黒青が売っていて、それは買いました。でも、Air Jordan 2は、日本では見たことがないなあ。
SN:アメリカでは、Air Jordan 2は限られた店でしか販売されていなかったためにAir Jordan 2は見つからず、Air Jordan 1、Air Jordan 3、Air Jordan 4は見つけることができました。ただ、あまり積極的には買い付けていませんでした。あくまで、ランニングシューズの買い付けのついでって感じ。日本では、ニューバランスが大ヒットしていた頃だったので、むしろそっちを買い付けていましたね。
発売当初、本当にAir Jordan 1は売れてなかったんですね。
SN:1990年2月に『Labrador Retriever』をリニューアルオープンした時、お客さんが200メートルほど列を作って並んだんです。デッドストックのAir Jordan 1も19,800円で並べてたんですが、これが全く売れなかった(笑)。1足も売れなかったんですよ。つまり、まだ1990年前半の時点でも、火がついてなかったんです。この写真見てください。AJは売れないから、2段目においているんですよ。主役は、まだまだランニングシューズでした。
とはいえヒロシさんは、80年代後半から履いていたんですよね?
HF:そうですね。僕はスケーターで、スケートする時に履いていました。だから、Air Jordan 1は、バスケットシューズっていうよりは、スケートシューズでした。スケートボードをする僕らはお金がないから、安いシューズを買ってボロボロにしてたんです。そう、ジョーダンは安かったから。Air Jordan 1と思って、DUNKも買ってたりした。それもセールで売ってました。
その時、日本ではヒロシさんしか履いていなかった?
HF:いや、そんなことないですよ。ボーンズ・ブリゲート(※1980年代に全米で一世を風靡した天才スケートボード集団)の一番有名なビデオでもみんなAir Jordan 1を履いていて、マーク・ゴンザレスもAir Jordan 1を履いていて。だから、日本のスケーターで履いている人はいました。ただ、スケーターのテクニックで、スイッチはなかった時代から、(スケボーで)オーリーをすると左足だけボロボロになっている。うん。だから、グーフィー(右足を前にして滑るスタンス)の人と交換すると賢かったかも。国内でも、skatethingとか、t19(skate team)の人たちが履いていました。彼らはいつでもスタイリッシュでした。
Air Jordan 1って、いったい、いつ流行り始めたんでしょう?
HF:スケーターが実用として履いていて、スケーター以外にもスケートファッションというものが火がついた。そうすると、スケーターじゃなくても、スケートファッションが好きな人はAir Jordan 1をスタイルとして履きたくなるでしょ。その頃にみんな探しだして、中曽根さんのところに行って買っていたんだと思います。つまり、スケーターと、スケートファッションが好きな人が履いていたのが始まりかな。
1994年に、Air Jordan 1の復刻第1弾が出ています。おそらくその時点では、もうAir Jordan 1は大人気だったと思うのですが、具体的にはいつ爆発的にヒットし始めたんでしょう? 1992年ごろでしょうか?
SN:いや、僕の肌感としては、もっと前だね。90年の9月とかに、いきなりバーって売れ始めたのよ。
その要因って?
SN:実はそれがわからなくて。ただ、その90年9月から転売ヤーみたいな人もいっぱい『Labrador Retriever』に来た。あれだけ売れなかったのに、いきなりムーブメントになった。ファッション的なアプローチというより、カルチャー的な流れで来たのかもしれない。でもね、アメリカに行く度に、ゆっくり、少しづつ買い付けてきたジョーダンを、転売ヤーが僕の店で買い付け、近くの原宿で倍の値段で売っているのを見た時とかは本当に悔しかったね。90年9月にAir Jordan 1の人気が始まり、91年、92年、93年とかはずっと売れていました。
人気となるAir Jordan 5が90年に出ているので、その流れで、Air Jordanが見直されて火がついたってことはありますか?
HF:Air Jordan 5はめっちゃ売れたのでは?
SN:そうですね。確かに、Air Jordan 4がじわじわ人気が出て、Air Jordan 5でドカンとなった記憶はあります。でも、5が人気になった時点でも、Air Jordan 1はまだいっぱい残っていました。だから、突然Air Jordan 1が売れた理由を逆に教えて欲しいくらい。僕は当時、日本で一番Air Jordan 1の在庫を持っていたはずだから、「あの店に行けば、絶対にある」って思われていたと思います。イチローさんも買いに来てくれた記憶がある。
HF:ブームとしては、アメカジみたいなところじゃなくて、スケートボードがバーッとあって、その後、Hip Hopのムーブメントがきて、その核となったのがバスケットボールシューズ。だから、その流れかも。
人気が出る前から、中曽根さんが一生懸命コツコツ買い続けていた理由ってなんだったんですか?
SN:88年に『Labrador Retriever』の買い付けをアメリカで始めたんです。で、当時、鈴木大器(※エンジニアド ガーメンツのデザイナー)を初めてアメリカに連れて行ったことがあって。そして、とあるテニスショップで、DUNKやTERMINATORを大量に見つけたりして。25ドルだったかな。鈴木大器のセンスで、「こういうものは絶対買ったほうがいい」ってアドバイスがあり、それがずっと頭の中にあったからかな。ただ、その88年の『Labrador Retriever』のオープニングに、8800円でDUNKを大量に売り出したけど、それも1足も売れなかったんです。でも、めげずに、アメリカに行く度にちょこちょこ買っていました。8から10ハーフまでのサイズをね。
Air Jordan 1の都市伝説と秘話
一時期は背番号に合わせて23色存在していた説や実際は18色展開だった説、サンプルを含めると28色以上見かけたことがあるなど、いくつかのエピソードがあります。おふたりの見解は?
HF:そんなにないのでは? 当時は白か、黒赤、白赤黒、黒青しか知らなかった。ずっと意識はしていたけど、これ以外の色はほんと見たことなかったな。中曽根さんの『Labrador Retriever』では、いろんな色、売ってました?
SN:白赤黒はたくさんありましたよ。それから黒赤と黒青。あと、メタリックブルーのタイプとつま黒。そのほかの色はほとんど見なかったなぁ。実際、買い付けの際に、細かい配色はあまり意識はしていなかったですね。つま黒とかも、同じに見えていた感じでした。あとは、今回出るモデル(Reverse Shadow)の、普通のバージョンである黒灰もあったな。これね、最初ジョーダンとは思わずに、TERMINATORだと思ってた。だって、TERMINATORのカラーリングでしょ?
HF:僕らが履き始めたのも、結局オンタイムではない。スケートボードで消耗するから、常にAir Jordan 1のデッドストックを探していて。ただ、今ほど加熱しているわけじゃないから普通に買えていました。
今回復刻される“Reverse Shadow”の配色は、当時からご存知でした?
HF&SN:まったく知らない。
HF:日本に写真があったらしいよ。本当にオリジナルは存在したのかな。
出回っていた画像のタンのタグがゴールドだから、これってチーム別注じゃないですかね?
HF:うーん、わかんないな。
SN:僕は憶測で話せないんですが、実はサンプルだけを売っている店がニュージャージーにあったんですよ。ハワイにもあったかな。だから、そういう店に出てたものじゃないのかな?
改めて、Air Jordan 1の魅力ってなんでしょう?
HF:僕が考えるAir Jordan 1の魅力は、「当時どこにでも売っていたのに、ある日突然買えなくなって、それが今もずっと心に残っている」という、そのストーリー性なんですよ。本当に良いものって、最初から手の届かない場所にあったり、限定品として騒がれたりするものばかりじゃない。むしろ、僕らの日常の近くに溶け込んでいた「ごく普通の存在」の中から、時を経てその真価が再発見されることがある。
AJ2もAJ3もAJ4もAJ5も、もちろん素晴らしいスニーカーで、当時は手に入れるのが本当に大変でした。情報も少なかったし、見つけるのも一苦労。でも、Air Jordan 1だけは違った。アメ横や海外ではセールのワゴンに入っているのを見かけることだって珍しくなかった。僕らは『Labrador Retriever』に行けば、つまり中曽根さんのところに行けば、いつでも買えるっていう安心感みたいなものがありましたからね。それが、ある時を境にパタッと店頭から姿を消して、気づけばとんでもない価値を持つ「伝説」になっていった。この“いつでも買えたのに、いまは買えなくなった”っていう存在は、本当に良いものだと思う。
SN:出始めは、たしかに誰も見向きもしなかったのにね。でも、うちの店でいつでもあった。
HF:後になってその価値を再認識した時に、より強く心に残るんですよね。
ヒロシさんにとって「当時どこにでも売っていたのに、今は買えなくて、ずっと心に残っているもの」は、他にもあるんですか?
HF:うーん、パッと頭に浮かぶのは、ナイキのフットスケープと、ティファニーxロレックスかな。
貴重なお話をありがとうございました!
藤原ヒロシと中曽根信一、ふたりのレジェンドの対談から見えてきたのは、Air Jordan 1が発売当初は「伝説のスニーカー」ではなかったという、現代の認識とはかけ離れた意外な事実だった。中曽根氏の店では、(いまでは300万円はする)Air Jordan 1のデッドストックが19,800円でも1足も売れなかったというエピソードは、スニーカー史上最高の名作が、スタートは「売れないスニーカー」だったことを物語っている。
しかし、スケーターたちが、その安さと頑丈さから練習用のシューズとしてAir Jordan 1を履き潰し始めた。彼らが生み出すストリートカルチャーがメディアを通して広まるにつれて、スケーターではない層にも「スケートファッション」が浸透し、そのスタイルを象徴するアイテムとしてがAir Jordan 1が注目され始める。
そして、中曽根氏の言う「90年9月」という謎のタイミング。この時期、突如としてAir Jordan 1の需要が爆発的に高まった。Air Jordan 5のヒットが追い風になった可能性はあるものの、中曽根氏自身もその明確な理由が分からないという。
だが、ここで重要なのは、当時のAir Jordan 1は市場に普通に存在し、(探せば)誰もが手に取れる状態だった、という点だ。その潤沢な在庫が、スケーターやストリートカルチャーの担い手たちに浸透する土壌を作った。あまり見向きされなかったからこそ、大量に残っていた、という皮肉な見方もできるが、その買いやすさやリーズナブルさのおかげで、偶然にもストリートのアイコンとして再評価された。
Air Jordan 1は、初のエアシステムを搭載し、流行の最先端をいくはずのバスケットボールシューズであったが、ストリートカルチャーという予期せぬ場所で「再発見」され、その圧倒的な存在感と歴史が、後世のファンによって「伝説」へと昇華されていった。また、今回の“Reverse Shadow”のリリースは、単なるカラーバリエーションの追加に留まらないだろう。当時の試行錯誤の塊のようなこのセールスマンサンプルカラーは、実のところ公式かどうかも定かではなかった。それが、〈Jordan Brand〉から正式発売となったのだ。この出来事は、Air Jordan 1の底知れない魅力を思い出させ、その歴史の奥深さを静かに、しかし鮮烈に代弁する。そして何より、僕らのコレクター心を、いや、その根底にある深掘り心を最高にくすぐる、そんな1足になるに違いない。
Air Jordan 1 High ‘85 “Reverse Shadow” POP-UP STORE
開催期間:2025年7月31日(木)~8月2日(土)
会場:V.A.
住所:東京都渋谷区神宮前6-1-9
営業時間:10:00-20:00
【アイテム情報】
Air Jordan 1 High ‘85 “Reverse Shadow”
販売価格:37,400円(税込)
サイズ展開:23~28.5、29、30、31、32cm
*初日と2日目の入店は事前抽選制(受付期間は既に終了)。
8月2日(土)の入店に関しては『V.A.』の公式『Instagram』で告知予定。
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