映画『リバーズ・エッジ』special interview 漫画家・よしもとよしともが語る、90年代、岡崎京子、小沢健二。よしもとよしとも描き下ろしイラスト付き。
24年前の1994年に単行本が発売された岡崎京子の漫画『リバーズ・エッジ』が、94年生まれの二階堂ふみと吉沢亮を主演に、岡崎京子と親交の深い小沢健二が曲を書き下ろすというこれ以上ない形で映画化された。当時隆盛をきわめたグランジ/オルタナティヴロックと呼応するかのように時代の閉塞感を描いた青春群像は、2018年にどう蘇ったのか。96年に交通事故に遭い、現在も療養中の原作者・岡崎京子と同時代を並走した漫画家・よしもとよしともに聞く、90年代、岡崎京子、小沢健二。よしもとよしとも描き下ろしのイラストとともにお届けする。
- Interview&Text_Shin Sakurai
- Photo_Aya Tonosaki(Yoshimoto Yoshitomo)
- Edit_Shinri Kobayashi,Masato Oota
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〜Introduction〜
「あたし達の住んでいる街には河が流れていて それはもう河口にほど近く 広くゆっくりよどみ、臭い」。河というものは本来、時間や歴史の象徴として物語の中に登場し、やがては海に流れ着く希望をたずさえているものだが、『リバーズ・エッジ』に流れる河は、決してどこへも辿り着かない「よどみ」の象徴として登場人物たちの前に立ちはだかっている。あらゆるものが流れず停滞し、堆積し、悪臭を放つ河のそばで生きることを決められた若者たちは、その河のようにどこにも流れ着かず、生の実感を持てず、それでも生のエネルギーを蓄えたままたゆたっている。大人や社会に対するわかりやすい反抗はなく、かといって見習うべきロールモデルもない。どこかあきらめたような目をしているが、ふとしたきっかけで生が暴発するあやうさも秘めている。「よくないこと」が水面下で着々と進行している。同じ高校に通う若草ハルナ、山田一郎、観音崎、吉川こずえ、小山ルミ、田島カンナ。それぞれが満たされない時間を過ごしていることが、劇中に登場するパックの牛乳によって描かれる。山田を執拗にいじめる観音崎が両親のいない自宅の冷蔵庫から取り出す牛乳パックの中身はカラだ。援助交際にも抵抗のないビッチ・小山ルミは姉に牛乳を独占されて自分の飲む分がない。いじめられている山田一郎は若草ハルナとともにノラ猫に牛乳を分け与えるくらいには愛情深いが、自分が牛乳で満たされることはない。モデルの吉川こずえはあらゆる食べ物を牛乳とともに胃に流し込み栄養になる前に嘔吐リバース。誰もが生命の象徴たるミルクにありつけないが、それをもってして彼らが不幸だとはいえない。よどんだ場所から手をのばそうとした者が、生き延びていく。呼んでも決して現れないUFO、噂だらけのゴーストたち。岡崎京子が24年前に描いたよどんだ河と空が、二階堂ふみを軌道として、吉沢亮、上杉柊平、SUMIRE、土居志央梨、森川葵ら若手俳優のフレッシュな身体を得て2018年に現出した。
映画『リバーズ・エッジ』が語るもの。
映画版の『リバーズ・エッジ』を観て、率直にどう思いましたか?
よしもとかなり原作そのままに映像化していたという印象でした。この映画に限らず、俺は映画を観る場合、映像的に飛躍する部分が何かしらほしいというか、それがあってこそ映画だと思っているんですけど、そうした部分は希薄な気がしました。たとえば、最後にロングショットが入るとか、空撮があるとか、そういう漫画にはできない映像的な飛躍を期待していたんですけど、その飛躍については、ラストに流れる小沢健二の曲がすべて担っていたという感じかな。
行定勲監督は、『リバーズ・エッジ』を映像化するにあたって画面をあえてスタンダードサイズ(1×1.33)にしているんですが、それは時代の閉塞感を出したいのと、漫画のコマのようにして人物一人一人を画面の真ん中に大きく映したかったからだそうです。
よしもとああ、それは納得できます。こっちは漫画の人間だから、どうしても映画ならではの表現を観たいわけだけど、逆に映画の世界の人が漫画的な画面にしたかったというなら、それはわかりますよ。俺は当時から言っていたけど、岡崎京子の作品の中で『リバーズ・エッジ』は好きじゃなかったんです。その後に描かれた『チワワちゃん』がすごくよくて、むしろそっちのほうが当時の空気感を表していたと思うし、その後に描き始めて未完になったままの『森』という作品は本当にすごいと思った。
それらに比べると『リバーズ・エッジ』は、内側から出てきたテーマというより頭で考えたものに思えたんです。当時、音楽でいうとグランジ/オルタナ系のソニックユースとかに象徴されるように、殺伐としたものがおしゃれだとか知的だと捉えられていた。あの頃、アーティストの間で流行り言葉みたいになっていたのが、「ぼくらは生きながら死んでいる」みたいな言い方で、あれが俺は嫌いだったんです。『リバーズ・エッジ』もそういうものの延長として映ったし、死とか死体に対するスノビズムみたいなものを感じた。死体を上から見下ろして客観的に眺めている、その立ち位置が気になったのかな。今回、映画版を観て余計にそう感じた。だって今の日本ってこの死体そのものじゃない、という気はしたな。客観的に眺めている場合じゃない、と。
死体というものを自分たちの外側にある異物として距離をとって見ている、と。
よしもとそうやって見ているところがスノッブな感じがしたんですよね。
90年代前半、死体写真集が一種の流行になったり、アートの文脈で死体を語るみたいな動きがありましたけど、それと近いものは確かに感じますね。
よしもとジョン・ゾーンのジャケット(ジョン・ゾーンのユニット、ペインキラーの『処女の臓腑』91年)とかね。今の年齢になって漫画の『リバーズ・エッジ』を読み返すと、昔みたいに「これ好きじゃないな」という感じではなくて、「これは岡崎京子にとって通過点の一つだよな」という感じで読めるくらいにはなっていますけどね。
それだけ時間が流れた、と。
よしもとそういうことです。当時の気分としては確かに殺伐としたものは周りにあったし、自分も漫画で描いてみたりもしたんだけど、その辺りは今となっては永久欠番にして封印しています。それで俺は『リバーズ・エッジ』に対するアンチテーゼとして、95年に『青い車』という漫画を描いたわけだけど。
よしもとさんの現時点での代表作である『青い車』については後ほどじっくりお聞きするとして、もう少し『リバーズ・エッジ』の話をしたいんですが、試写をご覧になった直後、「俳優たちのショーケースのような映画」とおっしゃっていましたよね。
よしもとそう。若い俳優たちがみんなそれぞれ原作のイメージを体現していたと思う。やっぱり映画は役者の力も大きいから。あとは同席した編集さんが言ってましたが、二階堂ふみの座長感ですよね。
座長感(笑)。確かに二階堂さんの熱意に周りの俳優が引っ張られていたような印象もありましたね。
よしもとそれはあると思いますよ。うちのカミさん(映像作家の中村佳代)が映画を撮っていて、そこに俺も脚本協力の形で参加することがあるので、映画が作られていく過程はいろいろ見てきているんだけど、本当に一人強い役者が入ると周りが引っ張られる。その相乗効果というものは確実にあるんですよね。
俳優同士のライバル心も生まれるでしょうし。そういう意味では、画角をスタンダードサイズにしたことで、余計なものが入らず中心に映る俳優の表情や佇まいがより鮮明に印象に残る形になったのかもしれないですね。あと、映画版は93年当時の匂いはあまりしないですよね。普遍性をもたせるためにあえてそうしているのかなとも思ったんですが。
よしもと当時の匂いを強烈に出そうとするなら、もっと当時の記号を画面全体にちりばめていくんだろうけど、そういう作り方はしてなかったですね。途中まで、今の設定にしているのか93年当時の設定なのかわからなかったくらいですから。携帯電話が出てこないから、あ、93年の設定なんだ、と気づいた。今、この登場人物たちと同世代の高校生が観たらどう思うのかはすごく興味ありますね。
あえて当時の記号やガジェットを網羅せずに物語の芯の部分だけを抽出するような手法だったんでしょうね。結果的にはそれがうまくいった、と。
よしもとうん、失敗しないという点ではうまくいったんじゃないかな。それが正解かどうかは分からないけど。
当時の雰囲気を出そうとしすぎると失敗する可能性もあった?
よしもとそのリスクは大きかったと思うし、そのリスクを負わない破綻しない作り方だったような気がする。俺はどっちかというと破綻しちゃうような映画が好きだから、その点については物足りなさもあったけど。
破綻しちゃう映画というと、たとえば?
よしもと『刑事マルティン・ベック』を監督したボー・ヴィーデルベリが好きなんですよ。積み上げたものを最後に台無しにするような映画がむしろ観たい。
一般的にはあまりウケないですけどね、そういうタイプの映画は。
よしもと確かに(笑)。
小沢健二と岡崎京子。
小沢健二がこの映画のために書き下ろした曲、『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』は、『リバーズ・エッジ』の物語自体ではなく、90年代の岡崎京子と小沢健二に対して今の視点から書いた手紙のような歌詞でしたが、どう聴きましたか?
よしもと最初に歌詞だけ発表された時にすぐに読みましたけど、俺はいいと思いました。歌詞の中に「森を進む子どもたちのように」というフレーズが出てくるけど、岡崎さんの未完の『森』を思い出して、そのつづきを描こうとしているんじゃないかとも思った。映画は93年という時間に固定されていたけれど、あの小沢健二の曲も、93年という時代への想いがつづられていたように思う。
90年代当時、よしもとさんは小沢健二に対してどう思っていたんですか?
よしもとカミさんがフリッパーズギターを大好きで、俺も後期は好きでよく聴いていました。小沢健二がソロになった時、最初のシングル(『天気読み』)の裏ジャケに歌詞が載っていたのをCD屋で読んで、「これはいいな」と思ってすぐに買いました。ソロになった時に開かれた日比谷野音のライブもカミさんと行った。当時、小沢健二はまだオザケンとは呼ばれてなくて、観客は「小沢くーん」とか声援を送っていたんだけど、カミさんが横で「大槻ケンヂがオーケンなら小沢健二はオザケンだよね」と言っていたのを覚えています。そのライブの小沢健二のギターがニール・ヤングみたいな歪んだ音ですごくよかった。それ以降、小沢健二の音楽はずっと好きで聴いてました。
岡崎京子さんとの出会いはもっと前ですよね?
よしもと80年代の半ば。俺は角川書店の『月刊あすか』という雑誌で漫画家としてデビューしたんですけど、その頃すでに岡崎さんの最初の単行本『バージン』が出ていて、いいなと思っていました。たまたま同じ雑誌で岡崎さんも読み切りを描いていて、編集さんに「会ってみる?」と言われたのが最初。そんなこんなで、「ちょっと手伝いに来てよ」といわれて岡崎さんの仕事場に行って手伝い始めたのが86年くらいかな。
岡崎さんはその頃どこに住んでいたんですか?
よしもと下北沢の実家。俺はちょうど横須賀の実家から高円寺に引っ越す頃でしたね。
ちなみに岡崎さんの仕事場では、どんな音楽が流れていたんですか?
よしもとニューウェーブ全盛期だったから、岡崎さんはヤング・マーブル・ジャイアンツとかポップグループなんかを聴いていた。あとはラフトレードの女性グループ…。
スリッツとか。
よしもとそう、その辺りがよく流れていた。ユーリズミックスの1st(『In The Garden』)もよく流れてたな。世の中はニューウェーブ全盛期だったけど、俺はちょっと飽き始めていて、60年代の音楽とかアメリカンロックを聴いていた。岡崎さんから「よしとも君、何か好きな曲テープに入れて持ってきてよ」と言われてチープトリックを持っていったら、「わたしアメリカンロックはダメなんだよね」と言われたのをすごく覚えていますね。そりゃあ当時の岡崎さんの趣味からしたら真逆だから。
漫画について話したりもしたんですか?
よしもと当時、手伝いにきていた他のアシスタントさんも漫画家のタマゴみたいな人たちだったから、とにかくみんなでしょっちゅう漫画の話をしてましたね。新しいものが出ればすぐに読むし、新人はいち早くチェックするし。
岡崎さんとは、やはり盟友というか、同時代を並走する感覚があったのでしょうか。
よしもとうん、方向性は違うんだけど、根っこの部分はかなり近いものがあった。影響を受けてきたものがすごく似ているし、歳もいっしょだし。俺も岡崎さんの漫画を手伝いながら学ぶところが多かった。
どの辺りを学んだんですか?
よしもと言葉は良くないかもしれないけど、手の抜き方かな。俺は大友克洋さんの影響でつい描き込んじゃうんだけど、ラフに描くべきところはラフに、抜くところは抜いたほうが見やすくなるということを岡崎さんを手伝っている時に思い知らされました。
『青い車』と『ラブリー』。
よしもとさんの『青い車』では、高速道路を走る車の中で小沢健二の『ラブリー』が流れて、「止めて 吐き気がする」と同乗する女子高生に言わせています。あれを描いた時はどういう心境だったのでしょう。
よしもとあれを描いた95年当時、世間的には小沢健二がもてはやされ過ぎていて、同調圧力というか、好きじゃなきゃダメみたいな雰囲気があって、それに対してこっちとしてはちょっと毒づきたいところもあった。俺としては勝負する感じで描いていて、対等に渡り合うには、あえてこれくらいやらなきゃという気分だった。それは自分の作品に自信があったから、あえてやったんですけどね。小沢健二についてはたぶんムカついている人も多いだろうなと思ったし、今持ち上げている人たちもどうせ急に手のひらを返すんだろうなと思って信用していなかったし。
小沢健二の音楽自体は好きで聞いていたけど、持ち上げられ方や批評できない雰囲気についてはカチンときていた、と。
よしもとそうです。『青い車』にああいうセリフが出てくることで、俺が小沢健二を嫌いなのかと思った人はすごくいっぱいいたんじゃないかと思うけど、全然逆ですよ。とにかく何かを強烈に出したかった。この作品自体、阪神淡路大震災の影響をすごく受けていて、あの時、俺の意識が相当変わったんです。震災の少し前からかな。さっき話した95年以前の「僕たちは生きながら死んでいる」という考え方がおしゃれ、というムードから、何かが変わるという予感があって、それは音楽でいうとテクノの新しい潮流とすごく結びついているんです、俺の中で。テクノのおかげで、体感として何かが変わるという開放的な感覚があった。おしゃれとは真逆の感じで、部屋着でクラブ行って踊って帰るみたいなことが、「いいな、それってパンクだな」みたいな感覚があって、何かが開かれていく感じがあった。そんな時に地震が起きて、これはえらいことになったな、と。
地震の何日か後、新聞で見開き二枚分くらいにわたって死者の名簿が載っていたのを見て衝撃を受けました。びっしり書かれた名前が、全部死体に見えたんですよ。そのイメージがすごく強烈で、いや「生きながら死んでいる」とか言っている場合じゃないだろうと痛感しました。
よしもと『青い車』を描く時に、その名簿をそのまま載せようかとも考えたんですけど、これは新聞の見開きで見せるから効果的なのであって、作品の中で見せても中途半端に終わるし、そういう手法じゃないな、もっと深い所まで降りていかないとダメだと思った。結局その名簿は使わなかったんだけど、自分のイメージの中では物語の背後にあの名簿があるんです。『青い車』は高速道路を走り続ける話なんだけど、高速道路は日本の動脈というか血管でもあるし、その防音壁の向こう側には死体が山のように転がっているというイメージで描いている。手の平の上でちょっと揺らしただけで死体だらけになるという状況で俺たちは生きているんだなという実感がその辺りから強くなり始めて、今もずっと続いているという感じですね。
『青い車』が映画化された時に、地震という要素がまったく入っていなかったので、これは別ものだなと思いました。脚本は一切読まずに勝手にやってくださいと言っていたので仕方ないんですけど。後になって、言っておけばよかったかなとも思ったけど、そうすると作れなかったかもしれないですね。実は『青い車』を映画化する時、最初に行定勲さんのところに話を持って行ったらしいんだけど、「これは映画にできない」と言われて断られたらしい。その判断はある意味で正しかったのかもしれないですね。
『青い車』は『リバーズ・エッジ』に対するアンチテーゼのようにして描かれている側面もあるわけだけど、今、90年代を語る時に『リバーズ・エッジ』は重宝されて『青い車』は絶版状態。それが現在なんだな、「今の90年代」なんだなと思う。
自分にとって90年代半ばの大きな変化はテクノがもたらしたものだったんだけど、その辺りも今はほとんど語られないですよね。全体を巻き込んだムーブメントとしては、それこそパンク/ニューウェーブに近いものだったはずなんだけど、今語られるとしたら個別単体のアーティストの話になってしまう。それが今の「都合のいい90年代」という気もする。
自分にとって、90年代と一口にいっても94年までと95年、90年代後半とでは明確に分かれるんですよ。90年代後半は俺的にはモーニング娘。と椎名林檎が象徴的で、俺は何一つピンと来なかったんだけど、あそこから土着的なものや田舎っぽさ、ヤンキーっぽさが蔓延し始める。日本がどんどん内側に向いていって、ブックオフ的なものが広がっていった。俺が住んでいる吉祥寺でも、90年代半ばまではまだ文化的な匂いがあったけど、90年代後半からどんどんブックオフ的なものが広がって均質化に向かって今に至る、という感じがしている。
なるほど。映画の『リバーズ・エッジ』を観ていて、オリーブ少女の化身のような田島カンナは93年とともに死んで、ギャルっぽい小山ルミは何度殺されそうになっても生き延びる。オリーブ少女が死んでギャルが生き延びるというのが、その後の時代を予見していたなと思いました。田島カンナは公衆電話から無言電話をかけていましたけど、今だったらネットで炎上させることも可能なのに、本人が文字通り炎上しちゃうという。で、田島カンナは幽霊になってマガジンハウスにいるんですよ。時々『オリーブ』が復活するのはそのせいなんですよ!
よしもと(苦笑)岡崎さんの中の暴力性は、デビューの頃からすでにあって。『リバーズ・エッジ』はその暴力性が頭で考えたもののような気がしちゃって、「君の暴力性はもっと違うところにあるんじゃないの? もっとすごいんじゃないの?」とは思っていた。
未完になっている『森』は本当に傑作だと思っているんだけど、あれは暴力性をわかりやすく表に出していないんですよ。『森』の第1話では、残虐性というものをスカジャンひとつですべて語ってしまっている。それはベトナムで人を殺していた人間が着ていたものだという、その一点に絞り込んでいる。絵もものすごくうまくなっているし、いろんなプロセスを通過して、ちょっとすごいところに到達していたと思うので、うーん…本当に残念です。本当はそういうところまで読み取って映画をつくってほしいという感じはあるんだけど、すごく難しいところだし、むしろそれは我々に残された課題だとも思う。
未完の『森』で岡崎さんが投げかけたもののその先をいろんな表現者がそれぞれの場で引き受けていく、と。
よしもと岡崎京子の映像化という意味では、個人的には『東京ガールズブラボー』とか『セカンドバージン』をテレビドラマでやってほしい。まあ、今誰が見るのかって感じかもしれないけど、俺は見たいな。
新作に向けて。
『森』のつづきを引き受けるという話でいいますと、よしもとさんも新作を準備中とのことですが。
よしもとそこに来るか(笑)。長編はもう十年くらい格闘していますけどね。その間にできたネームもあるんだけど、なぜ絵を描いて発表に至らないかというと、まあいろんな理由があるんです。自分の中で、漫画は現在を描くもの、ある意味でジャーナリズムだという意識があるから、現在を描いてなんぼだと思ってやってきた。『青い車』なんかはまさにそういう感じだったんだけど、今は世間的にはやっぱりファンタジーとか、そういうもののほうが受け入れられるじゃないですか。実際にそのほうが売れるわけだし。あと、3.11以降、特に顕著だけど、白か黒か、右か左かみたいに、常におまえは思想的にどっちなんだと突きつけられるからすごく描きにくい。たとえばヘイトスピーチのシーンが出てくるだけで編集サイドの顔が曇る。別に肯定も否定もせずに、ただ事実だけを描写しても却下されてしまう。
そういうディティールを他のものに置き換えると途端に抽象的なものになってしまいますしね。
よしもとある長編のアイデアがあって、すごく描きたいと思っていたんですけど、編集からは「わからない」と言われるし、現実のスピードが速すぎるから、すぐに描かないとネタとしてちょっと前の感じになってしまう。そういう葛藤を続けている一方で、ある時から自分が単純に好きなことを描こうかなと思い始めたんです。具体的にいうと、78、79年のパンク/ニューウェーブの衝撃というものを、その時代を詳細に描くことで、その時の高揚感みたいなものをそのまま今に伝えることができないか、と。今はそっちでやるしかないかなと、ようやく絞り込んだところです。やっと踏ん切りがついた。しばらく「今」を描くのはやめよう、と。
ただ、話はできあがっているんだけど、自分の絵に自分が飽きていることに一年くらい前から気づき始めていて。無理やり絵柄を変えればいいかというと、そういうものでもなくて、もっと自然に変わるんじゃないかと思っているんだけど、そういう時に俺の場合、ただ待っちゃうから、それでどんどん時間が過ぎてしまう(笑)。常に描いてないと画力が落ちるとも言いますけど、絵って気持ちが直接出るものだから、気持ちをつねに新鮮な状態にもっていかないと死んだ絵になっちゃうんです。とにかく新鮮な気持ちをしっかりキープできるようにしないとダメだな、と。ここ最近は、「じゃあ自分にとって新鮮な絵ってなんだろう」と考えて昔の漫画を読んでみたり、こういう絵が好きなんだよなと思ってちょっと真似して描いてみたりとか。
具体的にはどの辺りの絵なんですか?
よしもと70年代末の少女漫画とかですね。清原なつのさんの『花岡ちゃんの夏休み』。すごく具体的ですけど(笑)。あの絵は良い。ああいう絵が描きたい。でも描けない。うますぎる、あの人は。
あとは海外のアニメーションにも触発されたとか。
よしもとそう、去年は海外のアニメーションをいろいろ観る機会があって、代表的なのがトム・ムーアの『ソング・オブ・ザ・シー』と『ブレンダンとケルズの秘密』。あの衝撃がすごくて、その流れで日本未公開の『ロング・ウェイ・ノース』も入手したんですけど、それがまたすばらしくて。どれも昔の東映動画の影響を受けているんだけど、キャラクターがすごく単純化された描線で描かれていて、パースペクティヴが独特なんですよ。
自分の絵の変遷でいうと、90年代の頭くらいに大きな変化があって、絵柄がガラッと変わるんです。それはある瞬間、人の重さに気づいたことで起こるんですけど、人間はつねに重心をどこかにかけていて、その重心のかかり方に注意しながら重さを表現するようになった。重さを描くことで、時間の流れがコントロールできる。それによってある空気感みたいなものが表現できるところまで辿り着けたんじゃないかなと思って、その描き方がずっと自分のベースになっていたんですけど、それってある種のリアリズムだから、今はたぶんそこからちょっと離れたいということなんじゃないかなと思っているんです。
重力のリアリティから距離をとったところでどう軽やかさを表現できるのか。
よしもとそう。でも、まだ自分でも納得がいかないし、人に見せられる段階には達していない。そのヒントが、さっき言った『花岡ちゃんの夏休み』やトム・ムーアのアニメーションの中にあるとは思うんだけど、まだ自分のものとしては出せていない。じれったいですよね。軽さ、軽快さみたいなことだと思うんだけど、なかなか辿り着かない。
長編はさておき、先ほどの70年代後半にパンク / ニューウェーブの洗礼を受けた日本の少年たちの話はすごく面白そうですよね。
よしもと何より自分が楽しんで描けそうなテーマだしね。今、中古レコードも売れているし、若い人たちの間でニューウェーブに関心を持っている人も多い。昨今の漫画界では「短編はいらない」といわれることが多いんだけど、俺は短編の可能性を追求したいと思っているし、読み手も長編慣れしすぎているから、逆に新鮮に映ると思う。昔から、疎かにされていたり見捨てられていたりするものにこそ可能性がある、鉱脈があるという考え方できているから、今、短編にはすごく可能性があると思っているんです。
ただ、新しいもの、新鮮なものを人々は求めているのかというと微妙かもしれないな、と。ようするに、新しいものじゃなくて、みんなで盛り上がれるもの、みんなが知っているものだけで十分なんじゃないのかという気もするから、その辺で懐疑的になっている。まあ、ウダウダ言ってないで描けよって話なんですけどね(笑)。
昨年公開されたマイク・ミルズ監督の自伝的映画『20センチュリー・ウーマン』みたいな感じで日本におけるパンク/ニューウェーブのムーブメントを漫画で描くことは可能なんじゃないですかね。
よしもとああ、あの映画がまさに79年を描いていましたね。主人公の少年がちょうど俺と同い年の設定で。あれを観て思ったのは、かならずしも当時を忠実に再現しているわけではないということ。79年にアメリカ人がこんなにおしゃれな恰好をしていたはずがないじゃいないかと(笑)。でも、それでいいんだと思ったし、あの映画も一つのヒントになるかなと思ってます。
それはなんとしても読みたいですねえ。我々としてはとにかく待つしかないんですが、首を長くして楽しみにしています!
映画『リバーズ・エッジ』
出演:二階堂ふみ、吉沢亮、上杉柊平、SUMIRE、土居志央梨、森川葵
原作:岡崎京子(『リバーズ・エッジ』宝島社)
監督:行定勲 脚本:瀬戸山美咲 音楽:世武裕子
主題歌:『アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)』小沢健二(ユニバーサルミュージック) / 作詞・作曲:小沢健二
2018年2月16日(金)より、TOHOシネマズ新宿ほか全国ロードショー
キノフィルムズ配給
© 2018「リバーズ・エッジ」製作委員会 / 岡崎京子・宝島社
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Source: フィナム