Swizz Beatz(スウィズ・ビーツ)は、自身がキュレーターを務めたスイス発の老舗ラグジュアリーブランド〈BALLY(バリー)〉とUKストリート・アーティストのSHOK-1の限定コラボカプセルのリリースを契機に来日。音楽とアート、ファッションーーこのプロジェクトは、ヒップホップカルチャーの特徴とその可能性の構造を露わにしたものだ。
Swizz Beatz(以下、S):2018年の今、1980年代に席巻していたブランドがまたストリートに帰ってくるのは格別な気分だ。実は1980年代には私はすごく若かったが、それでもいっぱい語ることはあるよ(笑)。
VERBAL(以下、V):1980年代はさすがに僕も子供だったけど、もうヒップホップをディグしていたね。
Swizz Beatzは、言うまでもなくJay-Z(ジェイ・Z)からA$AP Rocky(エイサップ・ロッキー)まで手がけ、Drake(ドレイク)そしてT.I.と組みグラミーを受賞したヒップホップ史上最も偉大なプロデューサーの1人。その彼とあまり知られていないお互いの秘話からヒップホップのモラルとビジネスまでを話してくれたのは、日本国内でヒップホップ/ラップをメジャーにした最大の功労者、昨年待望のm-floの復活も実現させたラッパー/プロデューサーVERBAL(バーバル)だ。
S:私がヒップホップカルチャーと関わったのは、音楽プロデュースよりも遥かに前、“G.T.R.”というブレイクダンス・クルーのメンバーだったからだ。“G.T.R.”は、“guarantee to rock(ロックすること保証)”という(笑)意味の頭文字で、私たちメンバーは背中にスプレーで絵を描いたリーバイスのジャケット、シューレースなしのプーマを履いていた。しかし、私のSwizz Beatzという名前は……
V:スニーカーの〈K-Swiss(ケースイス)〉?
S:(頷いて)それを履いてダンスしていたからついた名前だ。80年代のストリートファッションがクールだった理由は、そこに子供に一体感を与えるユニフォームぽさがあったからだと思う。デニムジャケットとジーンズに、〈Kangol(カンゴール)〉、〈Sergio Tacchini(セルジオ・タッキーニ)〉、それに〈BALLY〉……。80年代に〈BALLY〉を履いていたら、レベルが段違いに上という感じだった。
V:スタイルからくる一体感は素晴らしかった。僕の場合、子供の頃に母にアメリカに連れて行かれたことから始まる。その頃の僕はよくいる日本の小学生って感じで、何がクールかなど気にしてなかった(笑)。昼間はYMCAの子供用夏休みキャンプに預けられたけど、その時に友達のブレイクダンスを見たのがヒップホップとの出会いだ。みんなでRUN-DMC(ラン・ディーエムシー)の“You Be Illin’”を歌う、というかラップするようになった。家に帰って母に「みんなでラップしたよ」って言ったら、「ラップって何?」と聞き返された(笑)。レコードやカセットから集めて、『Yo!』という雑誌も買ってたな(笑)。
S:『Yo!』覚えている(笑)。Fab 5 Freddy(ファブ・ファイヴ・フレディ)が司会の『「Yo!MTV Raps』という番組観てたけど、あれは『Yo!』から派生したテレビ番組だったな。
V:え、それ知らなかった!
とりわけラップにスポットが当たりがちなヒップホップだが、その誕生からの様子を指して“ヒップホップ四大要素”という言葉があるよう、ストリートから生まれたカルチャーだ。当初からラップ以外にもDJ/ブレイクダンス/グラフィティがあり、当時の新しい世代のライフスタイルを包括するものとして出発した。
S:(唐突に)お互いに知りあって何年経つ?
V:うーん……10年位かな?
S:私と君と一緒に育ったんだよ……(繰り返し)俺たちは一緒に育ったんだ。
よく知られているように、Swizz Beatzは当時のニューヨークの最貧困地区のブロンクス出身で、そのキャリアは16歳までに遡ることが出来る。Swizzは他のどこにもない、ヒップホップ・カルチャーを通してより広い社会と世界を見渡す遠近法を身につけていったのだ——「ヒップホップを毎日見ていて、それが唯一の方法だった」
成功した現在も、Swizzはビジネスの世界には稀なヒップホップのコミュニティに根差す道徳やフェアな競争原理を共存させていこうとするように見える。だからこそ彼はVERBALと一緒に育ったというのだ。それはヒップホップ言語を話す人間で作るコミュニティから派生した哲学といってもよく、ブレイクダンスで仲間を作り全てを始めた10代のストリートと、人生の経験が深くビジネスは幅広くなった後も、その芯はまっすぐ続きブレていないようだ。
S:もう知り合って随分と経つが、お互いに今が一番いい感じだと思う。高められていく状態に滞りながら刺激しあえる仲間が大切だ……サウス・ブロンクスに戻ろう。私はみんながラッパーになりたがるのを見て、後ろのDJにも注意を凝らしてみた。気がついたのは、ラッパーを生かすも殺すもDJやトラックだと……。
V:……思った?
S:確信するようになった(笑)。
V:(笑)。トラックを作ったりDJをするようになったのは、僕の場合もっと随分経ってから。パーティについてラップもしたが、僕は韓国系ということもあって、自分のアイデンティティについて自然に考えたし、僕が夢中になった頃は、そういう政治的な傾向を持つリリックのヒップホップも多かった時期。作った音楽をオーディション番組に送ったらチャンスが巡って来たが、その時はラッパーにはならなかった。まだ1990年代の初めで母親には「アジア系のラッパーなんて食べられるワケがない」と反対された。
S:今と比べると隔世の感がある。アジア系ラッパーの先駆者として君がカルチャーに持ち込んだものは本当に大きい筈だ。
V:僕にとってのヒップホップは音楽だけでなく全体的なカルチャー。音楽のなかで最も自由がある場を与えてくれて、自己表現を通して色々な意味で創造的になろうとする人間にとっての“家”になってくれる。実際に誰にも邪魔者扱いされたわけではなくても、社会のなかで疎外されていると感じた人間にとってヒップホップはクリエイティブになることを許してくれる。アメリカ人じゃなくても、アジア人のスケーターでも関係ない。
S:Wu-Tang Clan(ウータン・クラン)もスケートボードをリリースしたな。今でも自分が20歳で、DJを始めたばかりだったらいいと思うが、今年で私は40歳になる(笑)。毎年ヒット曲を出してきたわけではないし、重要なのはヒット曲を出していない時の“ライフ”というか、地に足を着けた自分に戻り、充電し、悟りの瞬間を持つことだ。まず音楽で重要なのは、自分が創造したサウンドの中で多くの人が楽しむことーーそのことを改めて実感できる時間を持つこと。
21世紀のカルチャー全般のみならずビジネスもリードするヒップホップはその出発点から音楽だけではない。18歳からアートの蒐集を始めたSwizz Beatzは、「Art Basel Miami Beach(アート・バーゼル・マイアミ・ビーチ)」のような世界的なアートフェアで自ら“No Commission”というショーケースをすることでマーケットの構造からアートとカルチャーに取り組んでいる。では、このトータルなアートは何処から来て、どちらに向っていくのか? Swizzはカルチャーへの“リスペクト”と理解がグローバルな共通言語になるという。
S:私はVERBALがジュエリーを作り始めた時期から知ってる。“POW!®️”だ。2008年かな。まだサンプルだけだったが、“POW!®️”の持つ美学を理解するのに時間なんてかからなかった。私が所有しているTaku Obata(小畑多丘)のスカルプチャーと同様に、ヒップホップ・カルチャーから生まれてきた美学だから。今回の〈BALLY〉とSHOK-1のコラボも、そうしたカルチャーを通しての美学への理解と信頼関係の上で可能になったことだ。日本ではカルチャーへの本当に高い鑑賞力を持っていると感じる。その昔、もうクラブの名前も忘れてしまったが、東京で経験したパフォーマンスはぶっ飛んだように純粋なアートの時間だった。VERBALが言ったように、そこにはヒップホップならではの自由があったが、その自由こそがクリエイティブの未来へと繋がっていく。遅かれ早かれ、銀行やグローバル企業もそのことを認めざる得ない。Banksy(バンクシー)が「Sotheby’s(サザビーズ)」でやってのけたことを思い出してほしい。アーティストがいなければクリエイティブな事柄は生まれない。何も動かない……クリエイティヴであることだけが世界を動かしていくのだから。
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Source: HYPE BEAST