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目次
池悦子氏: 日本のオートクチュール・サロンと買い付け現場のリアル
西武PISAの営業企画室で、イヴ・サンローランのオートクチュールサロンの運営に携わっていた池悦子氏は、当時のオートクチュールサロンについて次のように語った。
「西武百貨店は、日本の服飾文化のレベルアップを目指すために、啓蒙活動のひとつとしてオートクチュールを導入しました。また、サンローランを多くの人に知ってもらうためにメディアとの付き合いも欠かさず、文化出版局からは西武PISAでのショーの度に取材を受けましたし、『家庭画報』や『婦人画報』『マダム・ウーマン』『ハイファッション』『W JAPAN』からも取材していただきました。しかしながら、1970年代はパリでのショーは日本のテレビ取材もNGで、堤邦子部長の依頼によってようやくショー会場に入れるようになりました。それ以前は、日本を代表するファッション・ジャーナリストの大内順子氏でさえ招待されなかった。サンローランのショーは、それほどまでにリミテッドなものでした」。

西武PISA時代の池悦子氏
Image by: 池悦子
その徹底したこだわりは、空間作りにも現れていたという。
「西武PISAのサンローランのオートクチュールサロンは、その面積の3分の1をフィッティングルームが占めていました。そこには服を着た姿を全方位見られる三面鏡がありましたが、こうしたフィッティングルームは日本初だったのではないでしょうか。サロンで毎回開催していたショー用の椅子もパリのサロンと同じものを輸入し、優雅な雰囲気を創り上げました」。

西武PISAのイヴ・サンローランオートクチュールサロンの様子(「PISA」1980 SPRING/SUMMER NO.65より)
当時のパリでの買い付けのプロセスについても、下記のように語ってくれた。
「作品の買い付けは、インターコンチネンタルホテルでのコレクションショーの後日に、バイヤーと上顧客のためにハウスマヌカンに新作を着せてショーを行うスタイルでした。私たちはホテルとサロンとで2回ショーを見て、日本のお客さまに提案すべきデザインをチョイスしていました。買い付けは、デザイン製作の責任者と営業、広報の3人で行い、1シーズンに買い付けするデザインは24~28ルックほどでした」。
買い付けたデザインを日本で製作するため、服に必要なテキスタイルやボタン、芯地などの素材は全てパリ本部の指定店に注文するシステムだった。例えば、7月にパリで開催された秋冬コレクションのショーを日本で再現するのは10月中旬ごろ。スケジュールは常にタイトだったという。
「コレクションに同行したフィッターが、縫い方などを細かくチェックして日本での再現に備えました。アクセサリーは、サロンショーのために実物を輸入していました。ところが、パリは長期ヴァカンスのために素材が届くのは9月の中頃でしたから、いつも日本でのショーにはギリギリで間に合っていたのを覚えています」。

西武PISAが買い付けていたオートクチュールコレクションのルック(「PISA」1981-82 AUTUMN/WINTER NO.75より)
また、当時サロンが顧客への対応として特に大切にしていたのは、顧客同士のデザインがバッティングしないよう配慮することだ。「3点までは同じデザインを作れる契約でしたから、素材や色を変えて差別化を図ることで、納得していただいていました」。
そんなサロンに集うのは、小説家や音楽家、俳優などと財政界の名流夫人をはじめとした、多彩な顧客たちだった。
「小説家・脚本家の平岩弓枝氏からは、『講演会で出張する際に、サンローランのオートクチュールのスーツは、素敵なデザインでシワにならず、型崩れもしないし、長時間着ていても疲れない。つまり贅沢品ではなく、仕事着として優れているから着るの』というコメントをいただいたことがありました。テレビ番組の司会者も務めたファッションリーダーの芳村真理氏は、『夜のヒットスタジオ』でサンローランをよくお召しになりました。大企業の社長夫人も、海外出張に同行する際の装いとして、着物以外ではサンローランをお召しになる方が多くいらっしゃいました」と、池氏は当時を知る人にしか語れないエピソードを教えてくれた。

西武PISAのイヴ・サンローランオートクチュールコレクション(「PISA PARIS FASHION NEWS」1981 SPRING/SUMMER NO.71より)
栗野宏文氏: サンローラン・オムとの出会いと、実体験から見るメゾンの実像
ユナイテッドアローズの創立メンバーのひとりで、現在は同社の上級顧問クリエイティブディレクションを担当する栗野宏文氏には、この連載で詳しく語っていない「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オム(Yves Saint Laurent rive gauche HOMME、以後 サンローラン・オム)」のエピソードや、ムッシュ・サンローランとピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)との思い出を語ってもらった。
「僕とサンローランとの出会いは、1998年1月、エディ・スリマン(Hedi Slimane)が手掛けたサンローラン・オムのデビューショー(1998年秋冬コレクション)に招待されたことが始まりでした」。
当時、ユナイテッドアローズのバイヤー兼役員だった栗野氏は、デビュー間もない「ドリス・ヴァン・ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」や「ラフ・シモンズ(RAF SIMONS)」を積極的に買い付けていた。それを知っていたパリ在住のスタイリスト、水谷美香氏の紹介がブランドとの縁を繋いだという。

栗野宏文氏
Image by: FASHIONSNAP
「サンローランとはいえ、当時エディは無名のデザイナーでしたから、そのコレクションを買い付けるのは、かなり勇気がいることでした」。
ビジネスを始めるにあたり、栗野氏がエディのCV(キャリア)を調べて浮かび上がったのは、エディの仕掛け人であるジャン・ジャック・ピカール(Jean-Jacques Picart)の存在だったという。ピカールは、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」でヘッドハンティングを担い、1996年の「ルイ・ヴィトン モノグラムキャンバス誕生100周年記念プロジェクト(7人のデザイナーがモノグラムのバッグをデザインする企画)」を手掛けた中心人物だ。
「当時、服のヒストリーの研究者だったエディに、そのプロジェクトのデザイナーへの交渉やバッグ作りを任せたのがピカールでした。ピカールはサンローラン・オムを活性化させるために、エディをディレクターとしてベルジェに推薦したのです。サンローラン社では、ベルジェがOKなら全てがOKになる。そして、ユナイテッドアローズではエディが手掛けたサンローラン・オムはとてもよく売れたんです。その後、就任時に全てを一人で行っていたエディに、アントワープ王⽴芸術アカデミーを卒業したばかりのクリス・ヴァン・アッシュ(Kris Van Assche)を紹介したらすぐに採用してくれ、彼らは後の『ディオール オム(DIOR HOMME)』期まで何年も一緒に働いて、新しいメンズの美学を具現化していきました」。
また栗野氏は、福助による日本独自のライセンス契約から生まれた「イヴ・サンローラン・ジーンズ(Yves Saint Laurent jeans)」にまつわる、驚きのエピソードも明かしてくれた。ショー開催のために来日したサンローランのチームが、恵比寿のバー「カスバ(CASBA)」を訪れたときのことだ。
「本国チームのメンバーが『かっこいい男の子がいるからその場でモデルを頼もう』と言い出した。それが木村拓哉さんでした。もちろん彼らは木村さんを知らなかったのですが、日本人チームは『わー、キムタクに声をかけている』ととても驚いていました。木村さんはその場で出演を承諾し、ショーのトリを務めることになったんです。来日メンバーの中にはベテランのフィッティング担当者もいて、一晩でジーンズをモデルのサイズに直してしまった。それを見て、これがオートクチュールメゾンでは当たり前のことなのだと知って驚きましたね。だってジーンズですよ」。
栗野氏は、ムッシュやピエール・ベルジェとのパーソナルな交流についても振り返る。

1998年のサッカーW杯フランス大会 閉会式で行われた、イヴ・サンローランのファッションショーの様子
Image by: Jacques Lange/Paris Match via Getty Images
「僕は、ムッシュに何度か会ったことがあります。1998年にフランスで開催されたサッカーワールドカップの準決勝戦にサンローラン社から招待された際は、同じロイヤルボックスで試合を観戦しました。そのときムッシュとは、目を合わせた程度でしたが。社長のピエール・ベルジェはオープンな人で、彼らが好きなパレ・ロワイヤルの近くにある中華料理店『ダヴェ(Davé)』で偶然会ったときには、僕が知らないうちに彼が支払いを済ませてくれていたこともありました。オートクチュールのショーを見られたのも、財団が完成した際に招待されて資料室で説明を受ける機会があったのも、全てベルジェのおかげでした」。
こうしたエピソードの一方で、栗野氏はフランスと日本における「サンローランの受け止め方」の違いを冷静に分析する。
「フランス人にとって、サンローランはストーリーを持ち、自らも華やかな世界に身を置く天才クチュリエ。だけど日本人にとっては、数あるデザイナーのひとりでしかないわけです。日本には“ソーシャルライフ”、つまり、美術館のオープニングやガラパーティなどの社交の場がないから、ドレスアップする必要性を感じていない。日本人がファッションに疎いわけではなく、生活様式が違うことを認識する必要があると思っています」。
欧米のバイヤーは、パーティや結婚式などのオケージョンを踏まえて買い付けをする。モードの世界は、着る人がいて初めて成り立つもの。特にオートクチュールは、1つの結婚式で花嫁がサンローランのウエディングドレスを着れば、招待客も全員サンローランのドレスを着ることになるような、そんな世界なのだと栗野氏は語る。
「僕らがラグジュアリーブランド導入に成功したのは、日本の生活様式を踏まえたセレクトをしたからです。当時スモーキングも買いましたが、あくまで1型くらい。洋服文化の違いを知れば、日本のマーケットに何が必要かわかるはずです」。
そして栗野氏は、ブランドの背後で采配を振るったピエール・ベルジェの功績にも言及した。「ベルジェはビジネスマンだから、組織としてメゾンを理路整然と運営し、メゾン管理の原型を創り上げた。ベルジェはサンローランをパーソナルに愛していましたが、同時に彼の才能に対して惜しみなく投資もしてきた。サンローランの才能は不滅であり、彼は20世紀における最高のクリエイターのひとりでしたからね」。

イヴ・サンローランとピエール・ベルジェ(1992年撮影)
Image by: Serge ARNAL/Gamma-Rapho via Getty Images
森英恵氏による追悼文:時代を共にしたクチュリエの視点
2008年6月1日、20世紀のモードを牽引したイヴ・サンローランが逝去した。その訃報に際し、同じ時代にパリ・オートクチュール組合の公認正会員としてメゾンを構えた日本人初のデザイナー、森英恵氏は追悼の意を表した。2008年6月4日の朝日新聞には、森氏による「イブ・サンローラン氏を悼む」と題した追悼文が以下のように掲載された。
60年代、私はニューヨークを拠点に仕事をしていて、当時マジソン街に出店したイブ・サンローランのプレタポルテ(高級既製服)の店に、ちょいちょい新作を見に行った。
パリに行ったときにはセーヌ左岸の店を訪ねて買い物をした。ジャケットやパンツ、ブラウス⎯⎯。なかでも、紫地に小さなドットを染めた絹のしなやかなブラウスには、袖を通すたびに今もサンローランの才能を感じる。
機能的なパンツスーツが私の日常着になったのは、まさしくサンローランの影響だ。今でこそごく普通になったが、女には華やかでセクシーな服装が好まれた時代に、彼が発表したパンツスーツは、女性の未来を感じさせた。
日本人の感性を西洋の服に写し出し、パリのクチュール界に新しい風を吹き込んだ森氏。モードがキラキラと輝いた時代を同じクチュリエとして共にした彼女の文章には、自分にはない発想の服作りで時代を切り拓いたサンローランへの、憧憬の念が綴られていた。
現存するオートクチュールメゾンも、すでに創始者は不在となり、2~3代目が引き継ぐ時代を迎えている。オートクチュールをビジネスとして存続させるには、時代に即した才能を持つ若いデザイナーが不可欠だ。しかしムッシュ・サンローラン亡き後、オートクチュール・メゾンは閉鎖され、プレタポルテビジネスのみが継承された。「今後イヴの作品を再現し、超えるデザイナーは存在しない」というピエール・ベルジェの信念と、ムッシュ サンローランへの愛がそうさせたのだ。
この連載では、イヴ・サンローランがどのように日本と繋がり、そのエスプリが浸透していく足跡を5話にまとめた。連載にあたり、インタビューを受けていただいた元西武PISA 営業企画の池悦子氏とユナイテッドアローズの栗野宏文氏、西武百貨店関連についてはSEIBU SAISON HISTORYを主催する末永一彦氏、日本服飾文化振興財団の鶴田氏、久保田氏、佐々木氏、キャンティ広報室の川添史子氏、FASHIONSNAP編集部の佐々木エリカ氏にはパリ、ピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団の広報室との交渉とアプルーブに尽力していただいた。色々な場面でお力添えいただいた方々にこの場を借りてお礼申し上げたい。
ファッションジャーナリスト
横井由利
Yuri Yokoi
明治学院大学社会学部卒業。リヴ・ゴーシュ西武に勤務後、『マリ・クレール ジャポン』、『GQ ジャパン』、『ハーパーズ・バザー 日本版』の副編集長を務める。跡見学園女子大学 生活環境マネジメント学科准教授を経て、現在はファッションジャーナリストとして活動。
edit: Erika Sasaki(FASHIONSNAP)
【連載】イヴ・サンローランと日本 全5話
第1話:日本のオートクチュール市場の幕開けと上陸までの経緯
第2話:日本市場を切り拓いたオートクチュール、プレタポルテ、ライセンス戦略
第3話:ムッシュ自らが来日し披露した、3度のファッションショーとその特異性
第4話:モードを「消費」から「芸術」に昇華 歴史を変えた展覧会とその軌跡
第5話:証言で紐解くメゾンの実像 オートクチュールサロンの記憶からオムの衝撃まで
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池悦子氏: 日本のオートクチュール・サロンと買い付け現場のリアル
西武PISAの営業企画室で、イヴ・サンローランのオートクチュールサロンの運営に携わっていた池悦子氏は、当時のオートクチュールサロンについて次のように語った。
「西武百貨店は、日本の服飾文化のレベルアップを目指すために、啓蒙活動のひとつとしてオートクチュールを導入しました。また、サンローランを多くの人に知ってもらうためにメディアとの付き合いも欠かさず、文化出版局からは西武PISAでのショーの度に取材を受けましたし、『家庭画報』や『婦人画報』『マダム・ウーマン』『ハイファッション』『W JAPAN』からも取材していただきました。しかしながら、1970年代はパリでのショーは日本のテレビ取材もNGで、堤邦子部長の依頼によってようやくショー会場に入れるようになりました。それ以前は、日本を代表するファッション・ジャーナリストの大内順子氏でさえ招待されなかった。サンローランのショーは、それほどまでにリミテッドなものでした」。

西武PISA時代の池悦子氏
Image by: 池悦子
その徹底したこだわりは、空間作りにも現れていたという。
「西武PISAのサンローランのオートクチュールサロンは、その面積の3分の1をフィッティングルームが占めていました。そこには服を着た姿を全方位見られる三面鏡がありましたが、こうしたフィッティングルームは日本初だったのではないでしょうか。サロンで毎回開催していたショー用の椅子もパリのサロンと同じものを輸入し、優雅な雰囲気を創り上げました」。

西武PISAのイヴ・サンローランオートクチュールサロンの様子(「PISA」1980 SPRING/SUMMER NO.65より)
当時のパリでの買い付けのプロセスについても、下記のように語ってくれた。
「作品の買い付けは、インターコンチネンタルホテルでのコレクションショーの後日に、バイヤーと上顧客のためにハウスマヌカンに新作を着せてショーを行うスタイルでした。私たちはホテルとサロンとで2回ショーを見て、日本のお客さまに提案すべきデザインをチョイスしていました。買い付けは、デザイン製作の責任者と営業、広報の3人で行い、1シーズンに買い付けするデザインは24~28ルックほどでした」。
買い付けたデザインを日本で製作するため、服に必要なテキスタイルやボタン、芯地などの素材は全てパリ本部の指定店に注文するシステムだった。例えば、7月にパリで開催された秋冬コレクションのショーを日本で再現するのは10月中旬ごろ。スケジュールは常にタイトだったという。
「コレクションに同行したフィッターが、縫い方などを細かくチェックして日本での再現に備えました。アクセサリーは、サロンショーのために実物を輸入していました。ところが、パリは長期ヴァカンスのために素材が届くのは9月の中頃でしたから、いつも日本でのショーにはギリギリで間に合っていたのを覚えています」。

西武PISAが買い付けていたオートクチュールコレクションのルック(「PISA」1981-82 AUTUMN/WINTER NO.75より)
また、当時サロンが顧客への対応として特に大切にしていたのは、顧客同士のデザインがバッティングしないよう配慮することだ。「3点までは同じデザインを作れる契約でしたから、素材や色を変えて差別化を図ることで、納得していただいていました」。
そんなサロンに集うのは、小説家や音楽家、俳優などと財政界の名流夫人をはじめとした、多彩な顧客たちだった。
「小説家・脚本家の平岩弓枝氏からは、『講演会で出張する際に、サンローランのオートクチュールのスーツは、素敵なデザインでシワにならず、型崩れもしないし、長時間着ていても疲れない。つまり贅沢品ではなく、仕事着として優れているから着るの』というコメントをいただいたことがありました。テレビ番組の司会者も務めたファッションリーダーの芳村真理氏は、『夜のヒットスタジオ』でサンローランをよくお召しになりました。大企業の社長夫人も、海外出張に同行する際の装いとして、着物以外ではサンローランをお召しになる方が多くいらっしゃいました」と、池氏は当時を知る人にしか語れないエピソードを教えてくれた。

西武PISAのイヴ・サンローランオートクチュールコレクション(「PISA PARIS FASHION NEWS」1981 SPRING/SUMMER NO.71より)
栗野宏文氏: サンローラン・オムとの出会いと、実体験から見るメゾンの実像
ユナイテッドアローズの創立メンバーのひとりで、現在は同社の上級顧問クリエイティブディレクションを担当する栗野宏文氏には、この連載で詳しく語っていない「イヴ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オム(Yves Saint Laurent rive gauche HOMME、以後 サンローラン・オム)」のエピソードや、ムッシュ・サンローランとピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)との思い出を語ってもらった。
「僕とサンローランとの出会いは、1998年1月、エディ・スリマン(Hedi Slimane)が手掛けたサンローラン・オムのデビューショー(1998年秋冬コレクション)に招待されたことが始まりでした」。
当時、ユナイテッドアローズのバイヤー兼役員だった栗野氏は、デビュー間もない「ドリス・ヴァン・ノッテン(DRIES VAN NOTEN)」や「ラフ・シモンズ(RAF SIMONS)」を積極的に買い付けていた。それを知っていたパリ在住のスタイリスト、水谷美香氏の紹介がブランドとの縁を繋いだという。

栗野宏文氏
Image by: FASHIONSNAP
「サンローランとはいえ、当時エディは無名のデザイナーでしたから、そのコレクションを買い付けるのは、かなり勇気がいることでした」。
ビジネスを始めるにあたり、栗野氏がエディのCV(キャリア)を調べて浮かび上がったのは、エディの仕掛け人であるジャン・ジャック・ピカール(Jean-Jacques Picart)の存在だったという。ピカールは、「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」でヘッドハンティングを担い、1996年の「ルイ・ヴィトン モノグラムキャンバス誕生100周年記念プロジェクト(7人のデザイナーがモノグラムのバッグをデザインする企画)」を手掛けた中心人物だ。
「当時、服のヒストリーの研究者だったエディに、そのプロジェクトのデザイナーへの交渉やバッグ作りを任せたのがピカールでした。ピカールはサンローラン・オムを活性化させるために、エディをディレクターとしてベルジェに推薦したのです。サンローラン社では、ベルジェがOKなら全てがOKになる。そして、ユナイテッドアローズではエディが手掛けたサンローラン・オムはとてもよく売れたんです。その後、就任時に全てを一人で行っていたエディに、アントワープ王⽴芸術アカデミーを卒業したばかりのクリス・ヴァン・アッシュ(Kris Van Assche)を紹介したらすぐに採用してくれ、彼らは後の『ディオール オム(DIOR HOMME)』期まで何年も一緒に働いて、新しいメンズの美学を具現化していきました」。
また栗野氏は、福助による日本独自のライセンス契約から生まれた「イヴ・サンローラン・ジーンズ(Yves Saint Laurent jeans)」にまつわる、驚きのエピソードも明かしてくれた。ショー開催のために来日したサンローランのチームが、恵比寿のバー「カスバ(CASBA)」を訪れたときのことだ。
「本国チームのメンバーが『かっこいい男の子がいるからその場でモデルを頼もう』と言い出した。それが木村拓哉さんでした。もちろん彼らは木村さんを知らなかったのですが、日本人チームは『わー、キムタクに声をかけている』ととても驚いていました。木村さんはその場で出演を承諾し、ショーのトリを務めることになったんです。来日メンバーの中にはベテランのフィッティング担当者もいて、一晩でジーンズをモデルのサイズに直してしまった。それを見て、これがオートクチュールメゾンでは当たり前のことなのだと知って驚きましたね。だってジーンズですよ」。
栗野氏は、ムッシュやピエール・ベルジェとのパーソナルな交流についても振り返る。

1998年のサッカーW杯フランス大会 閉会式で行われた、イヴ・サンローランのファッションショーの様子
Image by: Jacques Lange/Paris Match via Getty Images
「僕は、ムッシュに何度か会ったことがあります。1998年にフランスで開催されたサッカーワールドカップの準決勝戦にサンローラン社から招待された際は、同じロイヤルボックスで試合を観戦しました。そのときムッシュとは、目を合わせた程度でしたが。社長のピエール・ベルジェはオープンな人で、彼らが好きなパレ・ロワイヤルの近くにある中華料理店『ダヴェ(Davé)』で偶然会ったときには、僕が知らないうちに彼が支払いを済ませてくれていたこともありました。オートクチュールのショーを見られたのも、財団が完成した際に招待されて資料室で説明を受ける機会があったのも、全てベルジェのおかげでした」。
こうしたエピソードの一方で、栗野氏はフランスと日本における「サンローランの受け止め方」の違いを冷静に分析する。
「フランス人にとって、サンローランはストーリーを持ち、自らも華やかな世界に身を置く天才クチュリエ。だけど日本人にとっては、数あるデザイナーのひとりでしかないわけです。日本には“ソーシャルライフ”、つまり、美術館のオープニングやガラパーティなどの社交の場がないから、ドレスアップする必要性を感じていない。日本人がファッションに疎いわけではなく、生活様式が違うことを認識する必要があると思っています」。
欧米のバイヤーは、パーティや結婚式などのオケージョンを踏まえて買い付けをする。モードの世界は、着る人がいて初めて成り立つもの。特にオートクチュールは、1つの結婚式で花嫁がサンローランのウエディングドレスを着れば、招待客も全員サンローランのドレスを着ることになるような、そんな世界なのだと栗野氏は語る。
「僕らがラグジュアリーブランド導入に成功したのは、日本の生活様式を踏まえたセレクトをしたからです。当時スモーキングも買いましたが、あくまで1型くらい。洋服文化の違いを知れば、日本のマーケットに何が必要かわかるはずです」。
そして栗野氏は、ブランドの背後で采配を振るったピエール・ベルジェの功績にも言及した。「ベルジェはビジネスマンだから、組織としてメゾンを理路整然と運営し、メゾン管理の原型を創り上げた。ベルジェはサンローランをパーソナルに愛していましたが、同時に彼の才能に対して惜しみなく投資もしてきた。サンローランの才能は不滅であり、彼は20世紀における最高のクリエイターのひとりでしたからね」。

イヴ・サンローランとピエール・ベルジェ(1992年撮影)
Image by: Serge ARNAL/Gamma-Rapho via Getty Images
森英恵氏による追悼文:時代を共にしたクチュリエの視点
2008年6月1日、20世紀のモードを牽引したイヴ・サンローランが逝去した。その訃報に際し、同じ時代にパリ・オートクチュール組合の公認正会員としてメゾンを構えた日本人初のデザイナー、森英恵氏は追悼の意を表した。2008年6月4日の朝日新聞には、森氏による「イブ・サンローラン氏を悼む」と題した追悼文が以下のように掲載された。
60年代、私はニューヨークを拠点に仕事をしていて、当時マジソン街に出店したイブ・サンローランのプレタポルテ(高級既製服)の店に、ちょいちょい新作を見に行った。
パリに行ったときにはセーヌ左岸の店を訪ねて買い物をした。ジャケットやパンツ、ブラウス⎯⎯。なかでも、紫地に小さなドットを染めた絹のしなやかなブラウスには、袖を通すたびに今もサンローランの才能を感じる。
機能的なパンツスーツが私の日常着になったのは、まさしくサンローランの影響だ。今でこそごく普通になったが、女には華やかでセクシーな服装が好まれた時代に、彼が発表したパンツスーツは、女性の未来を感じさせた。
日本人の感性を西洋の服に写し出し、パリのクチュール界に新しい風を吹き込んだ森氏。モードがキラキラと輝いた時代を同じクチュリエとして共にした彼女の文章には、自分にはない発想の服作りで時代を切り拓いたサンローランへの、憧憬の念が綴られていた。
現存するオートクチュールメゾンも、すでに創始者は不在となり、2~3代目が引き継ぐ時代を迎えている。オートクチュールをビジネスとして存続させるには、時代に即した才能を持つ若いデザイナーが不可欠だ。しかしムッシュ・サンローラン亡き後、オートクチュール・メゾンは閉鎖され、プレタポルテビジネスのみが継承された。「今後イヴの作品を再現し、超えるデザイナーは存在しない」というピエール・ベルジェの信念と、ムッシュ サンローランへの愛がそうさせたのだ。
この連載では、イヴ・サンローランがどのように日本と繋がり、そのエスプリが浸透していく足跡を5話にまとめた。連載にあたり、インタビューを受けていただいた元西武PISA 営業企画の池悦子氏とユナイテッドアローズの栗野宏文氏、西武百貨店関連についてはSEIBU SAISON HISTORYを主催する末永一彦氏、日本服飾文化振興財団の鶴田氏、久保田氏、佐々木氏、キャンティ広報室の川添史子氏、FASHIONSNAP編集部の佐々木エリカ氏にはパリ、ピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団の広報室との交渉とアプルーブに尽力していただいた。色々な場面でお力添えいただいた方々にこの場を借りてお礼申し上げたい。
ファッションジャーナリスト
横井由利
Yuri Yokoi
明治学院大学社会学部卒業。リヴ・ゴーシュ西武に勤務後、『マリ・クレール ジャポン』、『GQ ジャパン』、『ハーパーズ・バザー 日本版』の副編集長を務める。跡見学園女子大学 生活環境マネジメント学科准教授を経て、現在はファッションジャーナリストとして活動。
edit: Erika Sasaki(FASHIONSNAP)
【連載】イヴ・サンローランと日本 全5話
第1話:日本のオートクチュール市場の幕開けと上陸までの経緯
第2話:日本市場を切り拓いたオートクチュール、プレタポルテ、ライセンス戦略
第3話:ムッシュ自らが来日し披露した、3度のファッションショーとその特異性
第4話:モードを「消費」から「芸術」に昇華 歴史を変えた展覧会とその軌跡
第5話:証言で紐解くメゾンの実像 オートクチュールサロンの記憶からオムの衝撃まで
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