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目次
師弟関係と90年代 海外で見たもの
熊谷隆志(以下、熊谷):おお三田、元気?
三田真一(以下、三田):はい、暑いですね。
熊谷:暑いから早めにやりましょう。

──では早速、お二人のことから聞いていきたいと思います。出会いにさかのぼりますが、なぜ三田さんは熊谷さんのアシスタントになろうと思ったのですか?
三田:最初に師匠を見かけたのは、たしか「シンイチロウアラカワ(SHINICHIRO ARAKAWA)」のショー会場でした。一際お洒落な人がいるなと気になって。その後、「メンズノンノ」でアシスタント募集の告知を見つけて応募したんです。1995年のことですね。
熊谷:下北沢でやったショーの時か。古着をミックスして着ていた頃かな。
三田:古着とアメカジを合わせたりもしていましたよね。師匠が立ち上げた「ジーディーシー(GDC)」の初期は、まさにその雰囲気。
今日その初期のナポレオンジャケットを持ってきたんです。僕が大切にしていたもので、本当はこれを着て師匠を待とうと思ったんですけど、暑くて・・・。

熊谷:ナポレオンジャケットは元々、パリのオペラ座近くの古着屋で買ったものなんですよ。当時、お金がないのに7万円の大金をはたいて買って、リメイクして、浅野(忠信)くんに着せたりしていた。そんなスタイリングを組むのは、僕くらいだったでしょうね。
三田:こんなジャケットに「リーバイス(Levi’s)」のダブルエックスを穿いて、金髪で・・・かなりのカッコよさでしたよ。
熊谷:こいつは今のジーディーシーでもまた作りたいな。(同席したスタッフに向けて)これ作ろう!


──熊谷さんはスタイリストとして活動する前、パリに留学されていたんですよね。
熊谷:最初はデザイナー志望だったんです。パリに行きたくて、「エスモード パリ」に留学しました。あの当時、ファッションを学ぶ場所といったらヨーロッパしか浮かばなかった。パリの「スタジオ・ベルソー(Studio Berçot)」、ロンドンの「セントラル セント マーチンズ(Central Saint Martins)」とか。
三田:そうでしたね。僕がロンドンに拠点を移したのは、師匠から独立した後。
アシスタント時代からすでに師匠は「デイズド・アンド・コンフューズド(Dazed & Confused)」や「アイディー マガジン(i-D Magazine)」といった海外誌で仕事をしていたんです。自分が渡英を決めたのは、その影響がかなり大きかったですね。表現においては海外のほうが、できることが多かったから。アシスタントをしながら、日本の幅の狭さを感じていて。
熊谷:あの頃は、まだ仕事が決まっていないのに勝手に作品を撮って海外誌に送ったりしていたな。
三田:僕が自分で作品を制作するようになったのは、ロンドン在住の頃からでした。実際に行ってみると、海外では服を借りること自体がすごく大変だったんです。それで、服以外の表現も含めて個性をどうやって出すかを考えるようになって、ベニヤ板だけで服を作ってみたり(笑)。そこで始めたもの作りが、今の活動につながっているのかもしれない。

「熊谷さんのところならしょうがないか」
──熊谷さんの元から独立した三田さんもまた、独自の道を歩んでいますね。
三田:改めて考えてみると、師匠の元から巣立ったメンバーって個性が強いですよね。僕の兄弟子の冬(スタイリスト冬)は料理、伊賀(スタイリスト伊賀大介)は映画やテレビの衣装とか・・・”熊谷組”はいろいろな方面で突出している。
熊谷:自分が植栽のほうに興味が向いていた時のアシスタントは、植木屋に転職しちゃいました(笑)。三田がいた時って、僕が写真をやる前だったっけ?
三田:ちょうど、レイクタホ名義で本格的にカメラを始める直前でした。師匠が海外誌を数多く手掛けていて、古着のバイイングもしている頃で。どの弟子も、アシスタント時代の経験がその後の人生に色濃く影響している気がしますね。
──三田さんから見て熊谷さんは、どんな仕事のスタイルでしたか?
三田:かなりさっぱりしていました。オン・オフがきっぱり分かれている。基本的にアメとムチがはっきりしているので、叱っても後まで引っ張らないタイプ。仕事のスタイルは「見て覚えろ」という感じでしたが、現場で色々と見られたことは本当によかったと思っています。
その代わり、毎日ものすごく忙しかった(笑)。海外撮影が決まったその日に渡航なんてこともありましたよね。アシスタント時代の全期間の中で、僕が休んだのは半日だけ。言われたことは身体中にメモを書いて、とにかく必死について行って。ポケベル片手に社用車で走り回っていましたよ。
熊谷:車がない時は自転車の二人乗りもしたな。今、自分はもう10年くらいアシスタントはいないんですが、ジーディーシーでは募集しています。この場を借りて、僕の右腕として働いてくれて、運転もできる人を募集中!
三田:(笑)。
──三田さんも自身のブランド「アイニージューベイベー(I Need You Baby)」を手掛けていますが、熊谷さんが「GDC」を立ち上げたのは1998年。スタイリストの枠を広げた第一人者でもありますね。
熊谷:”餅は餅屋”の概念を壊したから、服を作り始めた当初はめちゃくちゃ叩かれましたけどね。出禁になったりしたところは、今でも覚えてますから。でも出る杭として打たれまくって、今があります。僕が色んな道を開拓したから、みんなは楽になったと思いますよ。
三田:僕らは「熊谷さんのところなら仕方ないか」と言われましたね(笑)。”そういうチーム”だと思われていたのは、ありがたかった。
熊谷:僕は今、スタイリストの仕事をほとんどやっていないんですよ。再始動したジーディーシーに全力で向き合っています。打ち合わせには全部参加して、デニムを作るとなったら岡山まで行って。初心に戻ることができて、すごく楽しいですね。

テクノロジーは古くなるけど、工芸は変わらない
──お二人は伝統工芸という共通点もありますね。熊谷さんの実家は岩手県の伝統工芸である南部鉄器の老舗。三田さんは工芸の新しい表現を模索し、現代アートの個展も開いています。
熊谷:実家の鈴木盛久工房は今年、創業400年なんです。今は弟が16代目を継いで、岩手の工芸の人たちと連携をとりながら盛り上げています。独自のネットワークを広げていて、頼もしいですね。
そういう工芸を面白くしている、三田の創作活動は本当にすごい。太宰府天満宮や、ラフォーレミュージアムの展覧会に行った時、作品の価値がいかに高いものかを本人に伝えましたから。こんなに素晴らしい作品、絶対に安く売ったらいけないぞと。
三田:言われましたね(笑)。僕は師匠の弟のシゲさんにも影響されているんですよ。南部鉄器の工房も見学しましたし、たまに連絡を取っていて。いつか一緒に取り組みたいなと思っています。


ラフォーレミュージアム原宿で開催した個展「Path in Trace 轍」
熊谷:三田はそもそも、工芸の入り口は何だったの?
三田:最初はお茶。そこから器、工芸へとのめりこんでいきました。
熊谷:最終的には宇宙に行くんでしょ?
三田:行けたら面白いですけどね(笑)。
テクノロジーと工芸の両方を見ていると、テクノロジーは進化を続けるから技術自体はどんどん古くなっていくけど、工芸の技術は昔からずっと変わらずに変わっている。変なパラドックスが生まれるんです。その隙間って何だろう? 進化とは何か? とか考えながら、もの作りするのが面白いですね。
って、こういう話を年末に熊谷組のメンバーと飲みながら話すのが楽しいんですよ(笑)。スタイリストだけでも、かなりの数いますから。
熊谷:”孫”もいれたら大家族になるね。XGのスタイリストのRibbonちゃんからも「熊谷組なんです!」って言われてびっくりしたよ。ひょっとして、”ひ孫”まで数えたら100人は超えているんじゃないかな。

あらゆる仕事がめちゃくちゃ早い
熊谷:もの作りの発想は、どんな時に浮かぶ?
三田:移動の時ですかね。車とか。
熊谷:僕も運転中。交差点を曲がる瞬間に閃いたり。昔は波乗りの時だったんだけどね。
三田:何も考えていない時間がその時しかないから、というのもありますね。ぼーっとする時間が少ないというか。あとは、一人で考えるよりも打ち合わせをしている時に決まっていくことも多いかな。師匠は昔から、デザイン画を描くのもバイイングもリースも、あらゆる仕事のスピードがめちゃくちゃ早かったですよね。
熊谷:リースとかババッと決めて「僕より早いヤツいる?」って、よく聞いてたね(笑)。写真を撮るのも早いと言われるし、スタイルは変わらないかな。無駄なことが嫌いなだけなんだけど。あと、アシスタントに服を選ばせるのも反対派。それって自分のスタイリングとは言えないでしょ。今だったら三田に全部任せられそうだけどね。
三田:師匠はクリエイティブディレクションの仕事も、アシスタントなしで細かく回しているのがすごい。視野が広くて敏感ですよね。今もずっと業界の第一線にいて、驚くような新しいことを仕掛けてる。
熊谷:それが最近になって、自分がADHDということがわかったんですよ。診断テストが満点で。
三田:それ、僕もです。特に自分は、もの作りをするようになってから進行している気もします。集中はできるけど、小さいタスクに対応できなかったり。欠落と捉えるか、進化と捉えるか・・・。
熊谷:意外とこの業界に多いかもしれないね。あと変わらないことは、早起きくらいかな。朝、まだみんなが寝ている間に色んな考え事をするタイプ。昔は毎朝5時に起きてサーフィンやヨガをしていたけど。
三田は別荘とか作らないの? たぶん変なところに作るよね。見てみたいよ、地中とか湖の中とか(笑)。
三田:作りたいけど、なかなかできないですよ(笑)。まず師匠のように、建築からクラフト、車、植物まで、いろんなジャンルを深く掘り下げないと。

熊谷:でも、建築は唯一、入れる場所じゃないと思ったジャンルだった。建築家は今もずっとリスペクトしている職業の一つ。その代わりに、自分は庭を作ろうと思ったんだよね。でもここも深掘りしていくと植木屋の人たちもすごい、かなわないと思った。だから自分はコンセプトを考えるほうに向いて行ったかな。
たとえば、オージープランツ(オーストラリア原産の植物)を流行らせたのは僕じゃないかなと思っていて。バイロン・ベイにサーフィンしに行った時、そこの植栽がユニークだと思って、日本にマッチしそうと思って始めたら当たった。三田は、それを工芸の分野でやっている感じだよね。
三田:そうかもしれないですね。自分だったらどういうジャンルで掛け合わせるか? と考えるので。
熊谷:だからってあんなにすごい作品、誰でも作れるものじゃないよ。本当にすごいと思う。
三田:うわあ、嬉しいです。長く続けていこうと思っています。
師匠と呼べる人がいることの価値
──スタイリストが求められる仕事は、昔と今とで変わったと思いますか?
三田:「スタイリストは服をコーディネイトして着せる仕事」という認識は変わらずあると思いますね。でも僕は、服以外も全て”スタイリング”だと思ってやっています。
とくに熊谷組は、そもそもスタイリストの枠の中にいないとも言える。師匠は新たなジャンルを作った人だと思うんですよ。パリから帰国して、その雰囲気をストリートに混ぜていったスタイリストはほかにいなかったはずです。
熊谷:最初はマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)とヘルムート ラング(Helmut Lang)の影響を受けて、ファッションにどっぷりハマっちゃった。パリで観たラングのショーに興奮しすぎて、気絶しそうになったからね。

三田:僕はそれが、アレキサンダーマックイーン(Alexander McQueen)やニック・ナイト(Nick Knight)でした。ロンドンのカルチャーにハマっていって。
ハマったものをとことん追求することって、現代はより日常に近いジャンルの中で細かく分かれているような気がします。あの当時のストイックな感じは、今の時代には合わなそう。
熊谷:もし今、スタイリストを目指している人がいたら、ちゃんと学校に通って基礎を身につけることをアドバイスするかな。最初からフリースタイルで始めるのは、良い面も悪い面もあるから、あまりおすすめはしません。
三田:師匠みたいになるのは無理だけど、誰かがやっていないことをやるのが大事だとは思います。「自分だったらどうする?」と考えながら動く。
熊谷:今は昔みたいに怖い師匠はいないから、この世界に入りやすいんじゃない?
三田:それが可哀想だと思う時もあるんですよ。誰からも叱られずに過ごすと、考える能力が育たない気がして。深い人間関係が築けるかも疑問ですね。死ぬ気で色んなことを考えて、駆け抜けたからこそ得られたものがある。師匠と呼べる人がいることが、人生においてどれだけ価値があるかと、改めて思います。
熊谷:社会が大きく変わって、師弟制度そのものが崩壊したとも言えるな。
三田:そうですね。でも昔も今も変わらないのは、「今、一番面白くて、大変なところに飛び込んで行ったほうがいい」ということです。

熊谷:あれ、もうこんな時間か。そろそろ次があるから行くわ! それじゃ。
三田:あっ! 師匠、バッグ忘れてます!
熊谷隆志 Takashi Kumagai
1970年生まれ。渡仏後の1994年に日本でスタイリストとしての活動をスタート。1998年に写真家としての活動も開始、同年に自らがデザインを手掛けるブランドGDCをスタート。BIOTOP、CPCMでは外部ディレクターとして活躍し、現在も数多くのブランドやプロジェクトのディレクションを手掛ける。2025年3月にGDCを再始動させた。
Instagram: @takashikumagai_official
三田真一 Shinichi Mita
1975年生まれ、東京都出身。スタイリスト熊谷隆志氏に師事し1997年に独立。翌年、渡英しロンドンを拠点に雑誌、広告などに携わる。2001年帰国後、ファッション誌や広告、ライブ、映画、TVドラマなど様々なフィールドで活躍。2004年より個人制作と共にTENKIとしても作品発表を行う。近年では日本が誇る伝統工芸と現代技術を融合させた作品を発表している。
Instagram: @mitershinichi
text: Chikako Ichinoi, edit: Chiemi Kominato(FASHIONSNAP)
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師弟関係と90年代 海外で見たもの
熊谷隆志(以下、熊谷):おお三田、元気?
三田真一(以下、三田):はい、暑いですね。
熊谷:暑いから早めにやりましょう。

──では早速、お二人のことから聞いていきたいと思います。出会いにさかのぼりますが、なぜ三田さんは熊谷さんのアシスタントになろうと思ったのですか?
三田:最初に師匠を見かけたのは、たしか「シンイチロウアラカワ(SHINICHIRO ARAKAWA)」のショー会場でした。一際お洒落な人がいるなと気になって。その後、「メンズノンノ」でアシスタント募集の告知を見つけて応募したんです。1995年のことですね。
熊谷:下北沢でやったショーの時か。古着をミックスして着ていた頃かな。
三田:古着とアメカジを合わせたりもしていましたよね。師匠が立ち上げた「ジーディーシー(GDC)」の初期は、まさにその雰囲気。
今日その初期のナポレオンジャケットを持ってきたんです。僕が大切にしていたもので、本当はこれを着て師匠を待とうと思ったんですけど、暑くて・・・。

熊谷:ナポレオンジャケットは元々、パリのオペラ座近くの古着屋で買ったものなんですよ。当時、お金がないのに7万円の大金をはたいて買って、リメイクして、浅野(忠信)くんに着せたりしていた。そんなスタイリングを組むのは、僕くらいだったでしょうね。
三田:こんなジャケットに「リーバイス(Levi’s)」のダブルエックスを穿いて、金髪で・・・かなりのカッコよさでしたよ。
熊谷:こいつは今のジーディーシーでもまた作りたいな。(同席したスタッフに向けて)これ作ろう!


──熊谷さんはスタイリストとして活動する前、パリに留学されていたんですよね。
熊谷:最初はデザイナー志望だったんです。パリに行きたくて、「エスモード パリ」に留学しました。あの当時、ファッションを学ぶ場所といったらヨーロッパしか浮かばなかった。パリの「スタジオ・ベルソー(Studio Berçot)」、ロンドンの「セントラル セント マーチンズ(Central Saint Martins)」とか。
三田:そうでしたね。僕がロンドンに拠点を移したのは、師匠から独立した後。
アシスタント時代からすでに師匠は「デイズド・アンド・コンフューズド(Dazed & Confused)」や「アイディー マガジン(i-D Magazine)」といった海外誌で仕事をしていたんです。自分が渡英を決めたのは、その影響がかなり大きかったですね。表現においては海外のほうが、できることが多かったから。アシスタントをしながら、日本の幅の狭さを感じていて。
熊谷:あの頃は、まだ仕事が決まっていないのに勝手に作品を撮って海外誌に送ったりしていたな。
三田:僕が自分で作品を制作するようになったのは、ロンドン在住の頃からでした。実際に行ってみると、海外では服を借りること自体がすごく大変だったんです。それで、服以外の表現も含めて個性をどうやって出すかを考えるようになって、ベニヤ板だけで服を作ってみたり(笑)。そこで始めたもの作りが、今の活動につながっているのかもしれない。

「熊谷さんのところならしょうがないか」
──熊谷さんの元から独立した三田さんもまた、独自の道を歩んでいますね。
三田:改めて考えてみると、師匠の元から巣立ったメンバーって個性が強いですよね。僕の兄弟子の冬(スタイリスト冬)は料理、伊賀(スタイリスト伊賀大介)は映画やテレビの衣装とか・・・”熊谷組”はいろいろな方面で突出している。
熊谷:自分が植栽のほうに興味が向いていた時のアシスタントは、植木屋に転職しちゃいました(笑)。三田がいた時って、僕が写真をやる前だったっけ?
三田:ちょうど、レイクタホ名義で本格的にカメラを始める直前でした。師匠が海外誌を数多く手掛けていて、古着のバイイングもしている頃で。どの弟子も、アシスタント時代の経験がその後の人生に色濃く影響している気がしますね。
──三田さんから見て熊谷さんは、どんな仕事のスタイルでしたか?
三田:かなりさっぱりしていました。オン・オフがきっぱり分かれている。基本的にアメとムチがはっきりしているので、叱っても後まで引っ張らないタイプ。仕事のスタイルは「見て覚えろ」という感じでしたが、現場で色々と見られたことは本当によかったと思っています。
その代わり、毎日ものすごく忙しかった(笑)。海外撮影が決まったその日に渡航なんてこともありましたよね。アシスタント時代の全期間の中で、僕が休んだのは半日だけ。言われたことは身体中にメモを書いて、とにかく必死について行って。ポケベル片手に社用車で走り回っていましたよ。
熊谷:車がない時は自転車の二人乗りもしたな。今、自分はもう10年くらいアシスタントはいないんですが、ジーディーシーでは募集しています。この場を借りて、僕の右腕として働いてくれて、運転もできる人を募集中!
三田:(笑)。
──三田さんも自身のブランド「アイニージューベイベー(I Need You Baby)」を手掛けていますが、熊谷さんが「GDC」を立ち上げたのは1998年。スタイリストの枠を広げた第一人者でもありますね。
熊谷:”餅は餅屋”の概念を壊したから、服を作り始めた当初はめちゃくちゃ叩かれましたけどね。出禁になったりしたところは、今でも覚えてますから。でも出る杭として打たれまくって、今があります。僕が色んな道を開拓したから、みんなは楽になったと思いますよ。
三田:僕らは「熊谷さんのところなら仕方ないか」と言われましたね(笑)。”そういうチーム”だと思われていたのは、ありがたかった。
熊谷:僕は今、スタイリストの仕事をほとんどやっていないんですよ。再始動したジーディーシーに全力で向き合っています。打ち合わせには全部参加して、デニムを作るとなったら岡山まで行って。初心に戻ることができて、すごく楽しいですね。

テクノロジーは古くなるけど、工芸は変わらない
──お二人は伝統工芸という共通点もありますね。熊谷さんの実家は岩手県の伝統工芸である南部鉄器の老舗。三田さんは工芸の新しい表現を模索し、現代アートの個展も開いています。
熊谷:実家の鈴木盛久工房は今年、創業400年なんです。今は弟が16代目を継いで、岩手の工芸の人たちと連携をとりながら盛り上げています。独自のネットワークを広げていて、頼もしいですね。
そういう工芸を面白くしている、三田の創作活動は本当にすごい。太宰府天満宮や、ラフォーレミュージアムの展覧会に行った時、作品の価値がいかに高いものかを本人に伝えましたから。こんなに素晴らしい作品、絶対に安く売ったらいけないぞと。
三田:言われましたね(笑)。僕は師匠の弟のシゲさんにも影響されているんですよ。南部鉄器の工房も見学しましたし、たまに連絡を取っていて。いつか一緒に取り組みたいなと思っています。


ラフォーレミュージアム原宿で開催した個展「Path in Trace 轍」
熊谷:三田はそもそも、工芸の入り口は何だったの?
三田:最初はお茶。そこから器、工芸へとのめりこんでいきました。
熊谷:最終的には宇宙に行くんでしょ?
三田:行けたら面白いですけどね(笑)。
テクノロジーと工芸の両方を見ていると、テクノロジーは進化を続けるから技術自体はどんどん古くなっていくけど、工芸の技術は昔からずっと変わらずに変わっている。変なパラドックスが生まれるんです。その隙間って何だろう? 進化とは何か? とか考えながら、もの作りするのが面白いですね。
って、こういう話を年末に熊谷組のメンバーと飲みながら話すのが楽しいんですよ(笑)。スタイリストだけでも、かなりの数いますから。
熊谷:”孫”もいれたら大家族になるね。XGのスタイリストのRibbonちゃんからも「熊谷組なんです!」って言われてびっくりしたよ。ひょっとして、”ひ孫”まで数えたら100人は超えているんじゃないかな。

あらゆる仕事がめちゃくちゃ早い
熊谷:もの作りの発想は、どんな時に浮かぶ?
三田:移動の時ですかね。車とか。
熊谷:僕も運転中。交差点を曲がる瞬間に閃いたり。昔は波乗りの時だったんだけどね。
三田:何も考えていない時間がその時しかないから、というのもありますね。ぼーっとする時間が少ないというか。あとは、一人で考えるよりも打ち合わせをしている時に決まっていくことも多いかな。師匠は昔から、デザイン画を描くのもバイイングもリースも、あらゆる仕事のスピードがめちゃくちゃ早かったですよね。
熊谷:リースとかババッと決めて「僕より早いヤツいる?」って、よく聞いてたね(笑)。写真を撮るのも早いと言われるし、スタイルは変わらないかな。無駄なことが嫌いなだけなんだけど。あと、アシスタントに服を選ばせるのも反対派。それって自分のスタイリングとは言えないでしょ。今だったら三田に全部任せられそうだけどね。
三田:師匠はクリエイティブディレクションの仕事も、アシスタントなしで細かく回しているのがすごい。視野が広くて敏感ですよね。今もずっと業界の第一線にいて、驚くような新しいことを仕掛けてる。
熊谷:それが最近になって、自分がADHDということがわかったんですよ。診断テストが満点で。
三田:それ、僕もです。特に自分は、もの作りをするようになってから進行している気もします。集中はできるけど、小さいタスクに対応できなかったり。欠落と捉えるか、進化と捉えるか・・・。
熊谷:意外とこの業界に多いかもしれないね。あと変わらないことは、早起きくらいかな。朝、まだみんなが寝ている間に色んな考え事をするタイプ。昔は毎朝5時に起きてサーフィンやヨガをしていたけど。
三田は別荘とか作らないの? たぶん変なところに作るよね。見てみたいよ、地中とか湖の中とか(笑)。
三田:作りたいけど、なかなかできないですよ(笑)。まず師匠のように、建築からクラフト、車、植物まで、いろんなジャンルを深く掘り下げないと。

熊谷:でも、建築は唯一、入れる場所じゃないと思ったジャンルだった。建築家は今もずっとリスペクトしている職業の一つ。その代わりに、自分は庭を作ろうと思ったんだよね。でもここも深掘りしていくと植木屋の人たちもすごい、かなわないと思った。だから自分はコンセプトを考えるほうに向いて行ったかな。
たとえば、オージープランツ(オーストラリア原産の植物)を流行らせたのは僕じゃないかなと思っていて。バイロン・ベイにサーフィンしに行った時、そこの植栽がユニークだと思って、日本にマッチしそうと思って始めたら当たった。三田は、それを工芸の分野でやっている感じだよね。
三田:そうかもしれないですね。自分だったらどういうジャンルで掛け合わせるか? と考えるので。
熊谷:だからってあんなにすごい作品、誰でも作れるものじゃないよ。本当にすごいと思う。
三田:うわあ、嬉しいです。長く続けていこうと思っています。
師匠と呼べる人がいることの価値
──スタイリストが求められる仕事は、昔と今とで変わったと思いますか?
三田:「スタイリストは服をコーディネイトして着せる仕事」という認識は変わらずあると思いますね。でも僕は、服以外も全て”スタイリング”だと思ってやっています。
とくに熊谷組は、そもそもスタイリストの枠の中にいないとも言える。師匠は新たなジャンルを作った人だと思うんですよ。パリから帰国して、その雰囲気をストリートに混ぜていったスタイリストはほかにいなかったはずです。
熊谷:最初はマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)とヘルムート ラング(Helmut Lang)の影響を受けて、ファッションにどっぷりハマっちゃった。パリで観たラングのショーに興奮しすぎて、気絶しそうになったからね。

三田:僕はそれが、アレキサンダーマックイーン(Alexander McQueen)やニック・ナイト(Nick Knight)でした。ロンドンのカルチャーにハマっていって。
ハマったものをとことん追求することって、現代はより日常に近いジャンルの中で細かく分かれているような気がします。あの当時のストイックな感じは、今の時代には合わなそう。
熊谷:もし今、スタイリストを目指している人がいたら、ちゃんと学校に通って基礎を身につけることをアドバイスするかな。最初からフリースタイルで始めるのは、良い面も悪い面もあるから、あまりおすすめはしません。
三田:師匠みたいになるのは無理だけど、誰かがやっていないことをやるのが大事だとは思います。「自分だったらどうする?」と考えながら動く。
熊谷:今は昔みたいに怖い師匠はいないから、この世界に入りやすいんじゃない?
三田:それが可哀想だと思う時もあるんですよ。誰からも叱られずに過ごすと、考える能力が育たない気がして。深い人間関係が築けるかも疑問ですね。死ぬ気で色んなことを考えて、駆け抜けたからこそ得られたものがある。師匠と呼べる人がいることが、人生においてどれだけ価値があるかと、改めて思います。
熊谷:社会が大きく変わって、師弟制度そのものが崩壊したとも言えるな。
三田:そうですね。でも昔も今も変わらないのは、「今、一番面白くて、大変なところに飛び込んで行ったほうがいい」ということです。

熊谷:あれ、もうこんな時間か。そろそろ次があるから行くわ! それじゃ。
三田:あっ! 師匠、バッグ忘れてます!
熊谷隆志 Takashi Kumagai
1970年生まれ。渡仏後の1994年に日本でスタイリストとしての活動をスタート。1998年に写真家としての活動も開始、同年に自らがデザインを手掛けるブランドGDCをスタート。BIOTOP、CPCMでは外部ディレクターとして活躍し、現在も数多くのブランドやプロジェクトのディレクションを手掛ける。2025年3月にGDCを再始動させた。
Instagram: @takashikumagai_official
三田真一 Shinichi Mita
1975年生まれ、東京都出身。スタイリスト熊谷隆志氏に師事し1997年に独立。翌年、渡英しロンドンを拠点に雑誌、広告などに携わる。2001年帰国後、ファッション誌や広告、ライブ、映画、TVドラマなど様々なフィールドで活躍。2004年より個人制作と共にTENKIとしても作品発表を行う。近年では日本が誇る伝統工芸と現代技術を融合させた作品を発表している。
Instagram: @mitershinichi
text: Chikako Ichinoi, edit: Chiemi Kominato(FASHIONSNAP)
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