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目次
- 1 父の意向で大学の建設科へ
- 2 田山淳朗のひとことでファッションデザインの道に
- 3 生活費を稼ぐために始めたファッションデザイナー
- 4 ATMのキャラクターとの「出会い」
- 5 顧客さえも「ドン引き」した「ファッション × アニメ」
- 6 カール・ラガーフェルドを惹きつけたセーラームーン
- 7 山下が見据えるファッション × アニメの現在と未来
- 8 父の意向で大学の建設科へ
- 9 田山淳朗のひとことでファッションデザインの道に
- 10 生活費を稼ぐために始めたファッションデザイナー
- 11 ATMのキャラクターとの「出会い」
- 12 顧客さえも「ドン引き」した「ファッション × アニメ」
- 13 カール・ラガーフェルドを惹きつけたセーラームーン
- 14 山下が見据えるファッション × アニメの現在と未来
父の意向で大学の建設科へ
1966年生まれの山下が青春時代を送った1980年代は、川久保玲や山本耀司を筆頭に新世代の日本人デザイナーが頭角を現した時代だった。1980年代前半には、全身を真っ黒なデザイナーズブランドのアイテムで固めた「カラス族」が登場。80年代中盤にはDCブランドブームが起こり、そのムーブメントは山下が生まれ育った長崎にも波及した。当時中学生だった山下は「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」や「ワイズ(Y’s)」、菊池武夫の「メンズビギ(MEN’S BIGI)」などに対して「コンセプチュアルで格好良い」と思ってはいたものの、価格が高くて買えず、他のブランドで似たようなデザインのアイテムを買っていたという。

山下の父は建設会社を経営しており、後々は山下に会社を継がせたいと考えていた。その意向もあり、高校卒業後は大阪の摂南大学土木建築科に進学。だが、山下は「親に作られた未来を生きることは幸せなのか?」という疑問を持ったまま、大学生活を送ることになる。

Image by: FASHIONSNAP
田山淳朗のひとことでファッションデザインの道に
趣味で絵を描いていた母の影響もあって山下も幼い頃からイラストを描いていたものの、昔気質だった父は山下がイラストを描くことを不快に思っており、山下のイラストを破り捨ててしまうことがよくあったという。だが山下には、父に認められたいという強い気持ちがあった。そんなときに出会ったのが、1987年に初開催された「丸井デザイナーオーディション」だ。デザイン画による一次審査に応募したところ、無事通過。山下は「自分の絵が認められた」という満足感を得たので、一次審査で描いたデザイン画を基に繊維メーカーから提供された生地を使って実際に服作りをするという二次審査は辞退するつもりだったが、友人から「最後までチャレンジすべき」というアドバイスを受けて、服作りに挑戦することにした。

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だが、山下には服作りの経験どころか、知識も全くなかった。服を作るにはまずミシンが必要だと考え、街のジーンズショップに向かう。そこで裾上げをしていた店員に、服作りにはまず型紙が必要だということを教わる。その店員にパタンナーを紹介してもらい、パタンナーに作ってもらった型紙を、街のリフォーム店に持ち込んで裁断と縫製をしてもらうというプロセスを経て、なんとか服を作り上げた。だが、山下の作品は二次審査で落選してしまう。多くの人に関わってもらったこともあり、山下はかなり強い敗北感を味わったという。審査会の後に開催されたアフターパーティーに浮かない気持ちで参加したところ、審査員を務めていたファッションデザイナーの田山淳朗から「賞を取ることよりも、形にしたことに意味があるので、これからも続けたほうが良い」とアドバイスを受ける。このひとことをきっかけに、山下はファッションデザイナーを志すようになった。
生活費を稼ぐために始めたファッションデザイナー
「ファッションデザイナーになるための勉強をしたい」と山下が父に打ち明けたところ、父は「好きにしろ、絶縁だ」と激怒し、仕送りがストップしてしまう。生活費を稼がなくてはならなくなった山下は、手持ちの古着と近所の手芸店で買ったハギレを材料に、知り合いから借りたミシンで帽子をつくり、大阪のフリーマーケットで売り始めた。すると、当時大阪・梅田でインディーズデザイナーの服を扱っていた「あしたの箱」というショップのオーナーが全て買い取り、同店で販売されることになった。帽子はすぐに売り切れたので、山下は自身の作品を「あしたの箱」に継続的に卸すようになった。帽子に続いて服を作るようになるが、それはあくまでも「生活費を稼ぐため」。服を作りたかったのではなく、帽子よりも単価が高く利幅が大きい服にシフトしただけだったと山下は語る。とはいえ、当時帽子や服を売って得た収益も、次に作る商品の材料を買うと自分の手元にはほとんど残らず、肉屋で格安で買った鶏皮を焼いて食べ、空腹を紛らわせていたという。

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だが、「生活費を稼ぐため」に始めたブランドは評判を呼び、徐々に規模が大きくなっていった。1990年にビューティービーストクロージング(beauty&beast clothing)を設立。開催した展示会で声を掛けられ、1991年には大阪コレクションの新人枠に出品した。1992年にはインディーズブランドを集めた東京の展示会に参加。その展示会には、ビューティービーストと同じく1990年代のストリートで人気を集めた「スーパーラヴァーズ(SUPER LOVERS)」も出展していた。
順風満帆にビジネスを拡大する山下だったが、この頃から自分がやっていることが正しいのかどうか、自信が持てなくなってきたという。それを確かめるために山下が選んだ場所が、パリだ。「パリで相手にされなければ、自分にはファッションデザイナーの仕事は向いていないのだろう」と考え、1993年に視察のためにパリを訪れた。手探りで現地のPR会社を周っていると、アタッシェ・ドゥ・プレスの第一人者であるシルヴィ・グランバッハ(Sylvie Grumbach)と知り合うことができ、彼女のサポートを受けて1993年のパリファッションウィークのサブカレンダーでコレクションを発表。翌1994年もパリでコレクションを披露した。


だが、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で、コレクション用の靴の製造を託していた神戸・長田の靴屋が全焼してしまう。多くの知り合いが被災したこともあり、山下はパリでのコレクションを取りやめて、大阪のインディーズ時代から仲の良かったブランド「20471120(トゥー・オー・フォー・セブン・ワン・ワン・トゥー・オー)」と共に、チャリティショーを開催し、その収益を神戸市に寄付。その後は活動と発表の場を東京に移した。
ATMのキャラクターとの「出会い」
冒頭で触れたように、ビューティービーストは世界に先駆けて「ファッション × アニメ」を打ち出したが、そこに至るまでにどのような経緯があったのか。幼少期の山下は、テレビで見ていた「がんばれ!! ロボコン」(1974〜77年に放送された石ノ森章太郎原作の特撮テレビドラマ)や、ゴールドライタン(1981〜82年に放送されたタツノコプロ製作のロボットアニメ)などの超合金を集めており、「この頃からコレクション癖があったのかもしれない」と笑う。だが、小学校高学年になると、近所に住んでいた年下の友人から「まだそんなおもちゃで遊んでいるの?」と言われたことをきっかけに、全て捨ててしまった。その後、ティーンエイジャーになった山下が夢中になったのが、永井豪の漫画やアニメだ。永井豪は性やバイオレンスの表現を漫画に取り入れたことで知られているが、山下は「キューティーハニー」や「けっこう仮面」などの永井作品に「正義とエロティシズム」を感じ、ドキドキしながら見ていたという。だが、そういった経験がその後始動したビューティービーストのクリエイションと結びつくことはなかった。

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転機はふとしたときに訪れた。既にビューティービーストの事業をある程度軌道に乗せていた山下は、ある日取引先への支払いや従業員の給与振り込みのために、銀行のATMに立ち寄る。そのATMの操作画面に現れたのが、荒いドットで描かれた女性銀行員のキャラクターだった。ぎこちないアニメーションでペコリとお辞儀したそのキャラに、山下は強い衝撃を受ける。

銀行員のドット絵のイメージ(AI生成)
Image by: FASHIONSNAP
山下は、そのキャラクターに実際に接客されているような感覚を受けたという。そこから山下は、「この銀行員がラムちゃん(高橋留美子原作の漫画・アニメ「うる星やつら」のヒロイン)だったら、もっとお金を払ってもいいと思うかもしれない。ドラえもんだったら、お金を貸してくれるかも」と、イマジネーションを膨らませていく。山下は「アニメキャラクターは永遠に若いままで、スキャンダルとも無縁」だと考え、その昔パイロットが自身の戦闘機にマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)などの女優を描いて出撃したように、ラムやセイラ・マス(アニメ「機動戦士ガンダム」のヒロイン)のようなアニメキャラが「次世代のピンナップ・ガール」として、人々の心の支えになる時代が来るかもしれない、という思いを抱くようになった。
服にキャラクターを取り入れてみたい。そう考えた山下は、自身が描いたキャラクター「ティンク」を刺繍したアイテムをビューティービーストで販売する。

Image by: ビューティービースト
顧客への売れ行きが良かったことに加え、意外な人物からの反応もあった。そのひとりが、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)だ。アヴァンギャルドな作風ながら、老舗メゾン「ジバンシィ(GIVENCHY)」のデザイナーに抜擢されるなど、当時の新進デザイナーの筆頭株だったジョン・ガリアーノが、代官山にあったビューティービーストのショップ兼アトリエに真っ白なリムジンに乗って現れ、「ティンク」のスタジャンをずっと眺めていたというのだ。「ティンク」の刺繍を手掛けたのは、群馬・桐生の職人たちだった。桐生は、第二次世界大戦後に米兵からの人気を集め、現在はヴィンテージとして高い評価を集めるスカジャンの刺繍を請け負った、世界的な刺繍の生産地だ。


山下は、当時「ティンク」の刺繍を手掛けた桐生の職人たちと今も交流を持っており、近年発売されたスマートフォンゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」とビューティービーストとのコラボアイテムの刺繍も彼らに託した。


顧客さえも「ドン引き」した「ファッション × アニメ」
ジョン・ガリアーノを惹きつけた「ティンク」のスカジャンは、さらに新しい出会いを生んだ。アニメグッズの製造販売を手掛けるコスパ(COSPA)の立ち上げメンバーでデザイナーも務める和田洋介から「版権のコントロールはコスパが受け持つから、一緒にアニメのライセンスアイテムの展開をしないか」という提案が持ちかけられた。

そんな経緯から1998年に生まれたブランドが、「コスパVSビューティービースト(COSPA VS beauty:beast)」である。ビューティービーストは、同年に「ダークナイト」というテーマでコレクションを発表し、そこで「デビルマン」のキャラクターであるシレーヌをモチーフにしたアイテムを打ち出した。


Image by: ビューティービースト
だが、「ファッション × アニメ」という提案は、まだ時代に受け入れられなかった。ビューティービーストの顧客は、山下が生み出したキャラクターである「ティンク」に対しては好意的だったものの、「デビルマン」のように知名度が高いアニメキャラは受け入れ難かったようで、「顧客の半分はドン引きしていた」と山下は振り返る。顧客からは「なぜアニメキャラクターなんかをモチーフにするのか?」「もっと格好良いモードをやり続けて欲しい」といった声もあったものの、「ATMでの出会い」以降、山下には「アニメーションというモチーフは絶対にファッションに定着する」という確信があった。なので、コスパVSビューティービーストでは「銀河鉄道999」のメーテルや「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のラム、「機動戦士ガンダム」のモビルスーツの外装をキャラクターに着装させた「MS少女」などをモチーフにしたアイテムを続々と打ち出していった。

Image by: ビューティービースト


Image by: ビューティービースト


ここで、ファッションとアニメーションの歴史について少し触れてみたい。ファッション × アニメの嚆矢となったのは、ヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)とマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)によるブランド「セディショナリーズ(Seditionaries)」や、ステファン・レイナー(Stephan Raynor)が手掛けていた「ボーイロンドン(BOY LONDON)」などが牽引した、1970〜80年代のパンクファッションではないだろうか。これらのブランドは、ディズニーのアニメキャラクターを無断流用したうえでその「無垢さ」を風刺するイラストをTシャツに描き、反体制や反権威を表現した。山下は、これらのブランドのTシャツを数多く収集していたという。

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また、1994年にスタートしたスケートブランド「フックアップ(HOOKUPS)」も、創設者のジェルミ・クライン(Jeremy Klein)が日本のアニメカルチャーに強く影響を受け、「アキラ」をはじめとする日本のアニメや漫画から着想を得たアイテムを多数展開していた。山下はアメリカントイを扱うショップでフックアップを見つけ、日本の漫画家 遊人(ゆうじん)のイラストをモチーフにしたTシャツなどを購入。同時期に「アキラ」や「攻殻機動隊」などのTシャツを展開し、現在ヴィンテージとして高額で売買されているアメリカブランド「ファッション ヴィクティム(FASHION VICTIM)」のTシャツや、アメコミのTシャツなども収集していた。


山下が所有するアメコミ作品「レディ・デス(Lady Death)」のTシャツ
Image by: FASHIONSNAP

だが、これらの動きはあくまでもパンクやスケートなど、それぞれのカルチャーシーンの一部で起こっていたことで、ファッションの表舞台でアニメーションが大きくフィーチャーされることはなかった。特に1990年代前半の日本では、1989年に起こった誘拐殺人事件の被疑者がアニメ愛好家だったという報道の影響でアニメがバッシングの対象となったこともあり、ファッションとアニメーションとの間には非常に高い垣根があった。
山下によると1990年代当時、日本のアニメにインスピレーションを受けていたクリエイターの”同士”は、ほとんどいなかったという。1995年からテレビで放映された「新世紀エヴァンゲリオン」の大ヒット以降、カルチャーの視点で日本アニメを評価することは増えていたが、ファッションの視点で取り上げられることはまだ稀だった。メンズファッション誌「smart」1998年4月20日号には「写真集の現在」という特集が掲載されており、デザイナーやスタイリスト、ミュージシャンらが好きな写真集を紹介しているが、そこで挙げられている写真集の多くは、海外のフォトグラファーによるもの。そのなかで山下はただひとり「現在はジャパニメーションに興味を持っています」と語り、「GO NAGAI ALL HIT WORKS」という永井豪の作品集や、日本のアニメーションに影響を受けたニューヨークのデザイナーの作品をピックアップしている。
カール・ラガーフェルドを惹きつけたセーラームーン
ビューティービーストの時代を大きく先取りした打ち出しに、ジョン・ガリアーノに続いて超一流のクリエイターが反応した。パリの寿司屋で山下の知人がコスパVSビューティービーストの「美少女戦士セーラームーン」 の刺繍が施されたスウェットパーカを着て食事をしていたところ、刺繍を覗き込む視線を感じた。その視線の主は、「シャネル(CHANEL)」や「フェンディ(FENDI)」などを手掛けていた故カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)だった。ラガーフェルドはセーラームーンの刺繍を触りながら、「このパーカはどこで買えるのですか?」と声を掛けてきたという。

Image by: ビューティービースト

山下は、アニメキャラクターをファッションだけでなく音楽とも結びつけた。山下がデザインしたキャラクターと共に「LOVE ゲット GO!!」というプリントが施されたTシャツは、ビューティービーストが主催し、山下がDJを務めたクラブイベントのものだ。


また、アニメと共に日本を代表するカルチャーとなったゲームも、山下の着想源となった。ビューティービーストの代名詞となったデジタル迷彩は、山下がその昔喫茶店の据置式ゲーム機で楽しんでいた「ドンキーコング」などのアーケードゲームのドット絵がルーツだ。このデジタル迷彩は後に数多くの模倣を生むことになる。

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アニメやゲームを着想源にして山下が打ち出したファッションは、日本よりも海外で強い支持を受けた。当時、世界のファッションカルチャーを牽引していたイギリスの雑誌「i-D Magazine」や「THE FACE」などで、ロンドンの新進的なスタイリストたちがビューティービーストを「日本のオタクカルチャー」として紹介した。
ジョン・ガリアーノやカール・ラガーフェルドのエピソードについて山下は、「刺繍のクオリティに惹かれたのではないか」と分析するが、もしスウェットパーカのモチーフがセーラームーンでなかったなら、ラガーフェルドは興味を持っただろうか。いくら刺繍が素晴らしくとも、どこにでもあるモチーフのスタジャンを、ジョン・ガリアーノはしげしげと見つめただろうか。「日本のアニメキャラクター」と「桐生の刺繍」という、それまで交わることのなかったふたつの要素による化学反応が、ジョン・ガリアーノやカール・ラガーフェルドを惹きつけたと言えるのではないか。

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山下が見据えるファッション × アニメの現在と未来
冒頭で触れたように、2025年現在日本アニメの人気は全世界に広がったうえに、ファッションとアニメの垣根は完全に取り払われた。山下は「今のような状況はもっと早く来るかと思っていたが、意外と時間がかかった」と感じており、「一部のファンだけのものだったアニメが、コロナ禍以降急速にマスに拡大してコミュニケーションツールのひとつになったことで、キャラクターに対して愛着を持つ人の数も多くなり、昔のような“おたく”だけのものではなく、広く一般的な存在となった」と指摘。直近のアニメTシャツ人気に対しては、「常に自分と向き合って自身のスピリットを表現するのがファッションだと思っているので、アニメTシャツは着ることで安心感を得たり、キャラクターや作品へのリスペクトを共有するためのツールになっているのではないか」と分析する。

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近年のデザイナーズアーカイヴ人気の高まりもあり、ビューティービーストは世界中からの支持を集めている。ビューティービーストのインスタグラムアカウントのフォロワーの半分近くは北米のアカウントで、特にニューヨークとロサンゼルスにファンが多いという。1990年代のビューティービーストの情報はファッション誌などの紙媒体でしか残っておらず、インターネット上にはほとんど存在していないため、山下のもとにはSNSを介して海外の若いファンから多くの連絡が寄せられているそうだ。山下は「SNSのおかげで世界が近くなった」と話し、世界中の若者とのコミュニケーションを楽しんでいる。現在は、ニューヨークに住む20代の二人組デザイナーと、LINEでコミュニケーションを取りながらコラボアイテムを開発中だ。

山下は、2025年のコスパ創業35周年を記念して、「コスパVSビューティービースト」が再始動することを明かしてくれた。90年代当時と同じように、いくつかのアニメ作品とコラボしたアイテムを発売予定だという。また、「ファッション × 漫画」という打ち出しとして、90年代に山下が生み出したウサギのキャラクター「ダークナイト」を主人公とした漫画をインスタグラムで公開することも予定している。さらに現在、「20471120」や「メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO)」など、90年代当時から親交のあるデザイナーズブランドとのコラボレーションアイテムも展開している。


ビューティービーストとメゾンミハラヤスヒロのコラボスニーカー
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山下は今も、アニメやゲームを楽しんでいる。スマートフォンゲーム「勝利の女神:NIKKE」を「キャラクターがしっかり作り込まれており、グラフィックも美しい」と評し、他に「俺だけレベルアップな件」「私の幸せな結婚」「フルーツバスケット」「トライガン」などのアニメをお気に入りとして挙げる。
近年彼のもとには、ファッションデザイナーを志す若者が多く訪れるというが、そのデザインの対象は服ではなくアニメやゲームなどの衣装だという。山下は今後、アニメやゲームなどとリアルなファッションとの境目がなくなると考えている。リアルな服作りを長年続けてきた山下は、仕立て屋がオーダーメイドで洋服を仕立てるときに客の趣向やこだわりを大切にするように、アニメやゲームの衣装デザイナーもキャラクターの個性を理解してデザインに反映させることが大事だという。山下は、これまでの経験と知識を活かして自身がファッションとキャラクターの架け橋のような存在になれれば、と展望を語る。テクノロジーの進化とともに、ファッション、音楽、アニメ、ゲームをはじめとした様々なカルチャーのクロスオーバーがより顕著になっている。「ファッション × アニメ」の地平を切り開いた山下の、今後の取り組みに注目したい。

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1980年神戸市生まれ。関西学院大学社会学部在学中にファッションデザイナーを志し、卒業後にエスモード大阪校、エスモードインターナショナルパリ校でデザインとパターンを学ぶ。ファッション企画会社、ファッション系ITベンチャーを経て、フリーランスとして活動した後、FASHIONSNAPに参加。ファッションを歴史、文化、政治、経済などの視点から分析し、知的好奇心を刺激する記事を執筆することが目標。3人の子どもと過ごす時間が何よりの楽しみ。

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父の意向で大学の建設科へ
1966年生まれの山下が青春時代を送った1980年代は、川久保玲や山本耀司を筆頭に新世代の日本人デザイナーが頭角を現した時代だった。1980年代前半には、全身を真っ黒なデザイナーズブランドのアイテムで固めた「カラス族」が登場。80年代中盤にはDCブランドブームが起こり、そのムーブメントは山下が生まれ育った長崎にも波及した。当時中学生だった山下は「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」や「ワイズ(Y’s)」、菊池武夫の「メンズビギ(MEN’S BIGI)」などに対して「コンセプチュアルで格好良い」と思ってはいたものの、価格が高くて買えず、他のブランドで似たようなデザインのアイテムを買っていたという。

山下の父は建設会社を経営しており、後々は山下に会社を継がせたいと考えていた。その意向もあり、高校卒業後は大阪の摂南大学土木建築科に進学。だが、山下は「親に作られた未来を生きることは幸せなのか?」という疑問を持ったまま、大学生活を送ることになる。

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田山淳朗のひとことでファッションデザインの道に
趣味で絵を描いていた母の影響もあって山下も幼い頃からイラストを描いていたものの、昔気質だった父は山下がイラストを描くことを不快に思っており、山下のイラストを破り捨ててしまうことがよくあったという。だが山下には、父に認められたいという強い気持ちがあった。そんなときに出会ったのが、1987年に初開催された「丸井デザイナーオーディション」だ。デザイン画による一次審査に応募したところ、無事通過。山下は「自分の絵が認められた」という満足感を得たので、一次審査で描いたデザイン画を基に繊維メーカーから提供された生地を使って実際に服作りをするという二次審査は辞退するつもりだったが、友人から「最後までチャレンジすべき」というアドバイスを受けて、服作りに挑戦することにした。

Image by: FASHIONSNAP
だが、山下には服作りの経験どころか、知識も全くなかった。服を作るにはまずミシンが必要だと考え、街のジーンズショップに向かう。そこで裾上げをしていた店員に、服作りにはまず型紙が必要だということを教わる。その店員にパタンナーを紹介してもらい、パタンナーに作ってもらった型紙を、街のリフォーム店に持ち込んで裁断と縫製をしてもらうというプロセスを経て、なんとか服を作り上げた。だが、山下の作品は二次審査で落選してしまう。多くの人に関わってもらったこともあり、山下はかなり強い敗北感を味わったという。審査会の後に開催されたアフターパーティーに浮かない気持ちで参加したところ、審査員を務めていたファッションデザイナーの田山淳朗から「賞を取ることよりも、形にしたことに意味があるので、これからも続けたほうが良い」とアドバイスを受ける。このひとことをきっかけに、山下はファッションデザイナーを志すようになった。
生活費を稼ぐために始めたファッションデザイナー
「ファッションデザイナーになるための勉強をしたい」と山下が父に打ち明けたところ、父は「好きにしろ、絶縁だ」と激怒し、仕送りがストップしてしまう。生活費を稼がなくてはならなくなった山下は、手持ちの古着と近所の手芸店で買ったハギレを材料に、知り合いから借りたミシンで帽子をつくり、大阪のフリーマーケットで売り始めた。すると、当時大阪・梅田でインディーズデザイナーの服を扱っていた「あしたの箱」というショップのオーナーが全て買い取り、同店で販売されることになった。帽子はすぐに売り切れたので、山下は自身の作品を「あしたの箱」に継続的に卸すようになった。帽子に続いて服を作るようになるが、それはあくまでも「生活費を稼ぐため」。服を作りたかったのではなく、帽子よりも単価が高く利幅が大きい服にシフトしただけだったと山下は語る。とはいえ、当時帽子や服を売って得た収益も、次に作る商品の材料を買うと自分の手元にはほとんど残らず、肉屋で格安で買った鶏皮を焼いて食べ、空腹を紛らわせていたという。

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だが、「生活費を稼ぐため」に始めたブランドは評判を呼び、徐々に規模が大きくなっていった。1990年にビューティービーストクロージング(beauty&beast clothing)を設立。開催した展示会で声を掛けられ、1991年には大阪コレクションの新人枠に出品した。1992年にはインディーズブランドを集めた東京の展示会に参加。その展示会には、ビューティービーストと同じく1990年代のストリートで人気を集めた「スーパーラヴァーズ(SUPER LOVERS)」も出展していた。
順風満帆にビジネスを拡大する山下だったが、この頃から自分がやっていることが正しいのかどうか、自信が持てなくなってきたという。それを確かめるために山下が選んだ場所が、パリだ。「パリで相手にされなければ、自分にはファッションデザイナーの仕事は向いていないのだろう」と考え、1993年に視察のためにパリを訪れた。手探りで現地のPR会社を周っていると、アタッシェ・ドゥ・プレスの第一人者であるシルヴィ・グランバッハ(Sylvie Grumbach)と知り合うことができ、彼女のサポートを受けて1993年のパリファッションウィークのサブカレンダーでコレクションを発表。翌1994年もパリでコレクションを披露した。


だが、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で、コレクション用の靴の製造を託していた神戸・長田の靴屋が全焼してしまう。多くの知り合いが被災したこともあり、山下はパリでのコレクションを取りやめて、大阪のインディーズ時代から仲の良かったブランド「20471120(トゥー・オー・フォー・セブン・ワン・ワン・トゥー・オー)」と共に、チャリティショーを開催し、その収益を神戸市に寄付。その後は活動と発表の場を東京に移した。
ATMのキャラクターとの「出会い」
冒頭で触れたように、ビューティービーストは世界に先駆けて「ファッション × アニメ」を打ち出したが、そこに至るまでにどのような経緯があったのか。幼少期の山下は、テレビで見ていた「がんばれ!! ロボコン」(1974〜77年に放送された石ノ森章太郎原作の特撮テレビドラマ)や、ゴールドライタン(1981〜82年に放送されたタツノコプロ製作のロボットアニメ)などの超合金を集めており、「この頃からコレクション癖があったのかもしれない」と笑う。だが、小学校高学年になると、近所に住んでいた年下の友人から「まだそんなおもちゃで遊んでいるの?」と言われたことをきっかけに、全て捨ててしまった。その後、ティーンエイジャーになった山下が夢中になったのが、永井豪の漫画やアニメだ。永井豪は性やバイオレンスの表現を漫画に取り入れたことで知られているが、山下は「キューティーハニー」や「けっこう仮面」などの永井作品に「正義とエロティシズム」を感じ、ドキドキしながら見ていたという。だが、そういった経験がその後始動したビューティービーストのクリエイションと結びつくことはなかった。

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転機はふとしたときに訪れた。既にビューティービーストの事業をある程度軌道に乗せていた山下は、ある日取引先への支払いや従業員の給与振り込みのために、銀行のATMに立ち寄る。そのATMの操作画面に現れたのが、荒いドットで描かれた女性銀行員のキャラクターだった。ぎこちないアニメーションでペコリとお辞儀したそのキャラに、山下は強い衝撃を受ける。

銀行員のドット絵のイメージ(AI生成)
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山下は、そのキャラクターに実際に接客されているような感覚を受けたという。そこから山下は、「この銀行員がラムちゃん(高橋留美子原作の漫画・アニメ「うる星やつら」のヒロイン)だったら、もっとお金を払ってもいいと思うかもしれない。ドラえもんだったら、お金を貸してくれるかも」と、イマジネーションを膨らませていく。山下は「アニメキャラクターは永遠に若いままで、スキャンダルとも無縁」だと考え、その昔パイロットが自身の戦闘機にマリリン・モンロー(Marilyn Monroe)などの女優を描いて出撃したように、ラムやセイラ・マス(アニメ「機動戦士ガンダム」のヒロイン)のようなアニメキャラが「次世代のピンナップ・ガール」として、人々の心の支えになる時代が来るかもしれない、という思いを抱くようになった。
服にキャラクターを取り入れてみたい。そう考えた山下は、自身が描いたキャラクター「ティンク」を刺繍したアイテムをビューティービーストで販売する。

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顧客への売れ行きが良かったことに加え、意外な人物からの反応もあった。そのひとりが、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)だ。アヴァンギャルドな作風ながら、老舗メゾン「ジバンシィ(GIVENCHY)」のデザイナーに抜擢されるなど、当時の新進デザイナーの筆頭株だったジョン・ガリアーノが、代官山にあったビューティービーストのショップ兼アトリエに真っ白なリムジンに乗って現れ、「ティンク」のスタジャンをずっと眺めていたというのだ。「ティンク」の刺繍を手掛けたのは、群馬・桐生の職人たちだった。桐生は、第二次世界大戦後に米兵からの人気を集め、現在はヴィンテージとして高い評価を集めるスカジャンの刺繍を請け負った、世界的な刺繍の生産地だ。


山下は、当時「ティンク」の刺繍を手掛けた桐生の職人たちと今も交流を持っており、近年発売されたスマートフォンゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」とビューティービーストとのコラボアイテムの刺繍も彼らに託した。


顧客さえも「ドン引き」した「ファッション × アニメ」
ジョン・ガリアーノを惹きつけた「ティンク」のスカジャンは、さらに新しい出会いを生んだ。アニメグッズの製造販売を手掛けるコスパ(COSPA)の立ち上げメンバーでデザイナーも務める和田洋介から「版権のコントロールはコスパが受け持つから、一緒にアニメのライセンスアイテムの展開をしないか」という提案が持ちかけられた。

そんな経緯から1998年に生まれたブランドが、「コスパVSビューティービースト(COSPA VS beauty:beast)」である。ビューティービーストは、同年に「ダークナイト」というテーマでコレクションを発表し、そこで「デビルマン」のキャラクターであるシレーヌをモチーフにしたアイテムを打ち出した。


Image by: ビューティービースト
だが、「ファッション × アニメ」という提案は、まだ時代に受け入れられなかった。ビューティービーストの顧客は、山下が生み出したキャラクターである「ティンク」に対しては好意的だったものの、「デビルマン」のように知名度が高いアニメキャラは受け入れ難かったようで、「顧客の半分はドン引きしていた」と山下は振り返る。顧客からは「なぜアニメキャラクターなんかをモチーフにするのか?」「もっと格好良いモードをやり続けて欲しい」といった声もあったものの、「ATMでの出会い」以降、山下には「アニメーションというモチーフは絶対にファッションに定着する」という確信があった。なので、コスパVSビューティービーストでは「銀河鉄道999」のメーテルや「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のラム、「機動戦士ガンダム」のモビルスーツの外装をキャラクターに着装させた「MS少女」などをモチーフにしたアイテムを続々と打ち出していった。

Image by: ビューティービースト


Image by: ビューティービースト


ここで、ファッションとアニメーションの歴史について少し触れてみたい。ファッション × アニメの嚆矢となったのは、ヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)とマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)によるブランド「セディショナリーズ(Seditionaries)」や、ステファン・レイナー(Stephan Raynor)が手掛けていた「ボーイロンドン(BOY LONDON)」などが牽引した、1970〜80年代のパンクファッションではないだろうか。これらのブランドは、ディズニーのアニメキャラクターを無断流用したうえでその「無垢さ」を風刺するイラストをTシャツに描き、反体制や反権威を表現した。山下は、これらのブランドのTシャツを数多く収集していたという。

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また、1994年にスタートしたスケートブランド「フックアップ(HOOKUPS)」も、創設者のジェルミ・クライン(Jeremy Klein)が日本のアニメカルチャーに強く影響を受け、「アキラ」をはじめとする日本のアニメや漫画から着想を得たアイテムを多数展開していた。山下はアメリカントイを扱うショップでフックアップを見つけ、日本の漫画家 遊人(ゆうじん)のイラストをモチーフにしたTシャツなどを購入。同時期に「アキラ」や「攻殻機動隊」などのTシャツを展開し、現在ヴィンテージとして高額で売買されているアメリカブランド「ファッション ヴィクティム(FASHION VICTIM)」のTシャツや、アメコミのTシャツなども収集していた。


山下が所有するアメコミ作品「レディ・デス(Lady Death)」のTシャツ
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だが、これらの動きはあくまでもパンクやスケートなど、それぞれのカルチャーシーンの一部で起こっていたことで、ファッションの表舞台でアニメーションが大きくフィーチャーされることはなかった。特に1990年代前半の日本では、1989年に起こった誘拐殺人事件の被疑者がアニメ愛好家だったという報道の影響でアニメがバッシングの対象となったこともあり、ファッションとアニメーションとの間には非常に高い垣根があった。
山下によると1990年代当時、日本のアニメにインスピレーションを受けていたクリエイターの”同士”は、ほとんどいなかったという。1995年からテレビで放映された「新世紀エヴァンゲリオン」の大ヒット以降、カルチャーの視点で日本アニメを評価することは増えていたが、ファッションの視点で取り上げられることはまだ稀だった。メンズファッション誌「smart」1998年4月20日号には「写真集の現在」という特集が掲載されており、デザイナーやスタイリスト、ミュージシャンらが好きな写真集を紹介しているが、そこで挙げられている写真集の多くは、海外のフォトグラファーによるもの。そのなかで山下はただひとり「現在はジャパニメーションに興味を持っています」と語り、「GO NAGAI ALL HIT WORKS」という永井豪の作品集や、日本のアニメーションに影響を受けたニューヨークのデザイナーの作品をピックアップしている。
カール・ラガーフェルドを惹きつけたセーラームーン
ビューティービーストの時代を大きく先取りした打ち出しに、ジョン・ガリアーノに続いて超一流のクリエイターが反応した。パリの寿司屋で山下の知人がコスパVSビューティービーストの「美少女戦士セーラームーン」 の刺繍が施されたスウェットパーカを着て食事をしていたところ、刺繍を覗き込む視線を感じた。その視線の主は、「シャネル(CHANEL)」や「フェンディ(FENDI)」などを手掛けていた故カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)だった。ラガーフェルドはセーラームーンの刺繍を触りながら、「このパーカはどこで買えるのですか?」と声を掛けてきたという。

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山下は、アニメキャラクターをファッションだけでなく音楽とも結びつけた。山下がデザインしたキャラクターと共に「LOVE ゲット GO!!」というプリントが施されたTシャツは、ビューティービーストが主催し、山下がDJを務めたクラブイベントのものだ。


また、アニメと共に日本を代表するカルチャーとなったゲームも、山下の着想源となった。ビューティービーストの代名詞となったデジタル迷彩は、山下がその昔喫茶店の据置式ゲーム機で楽しんでいた「ドンキーコング」などのアーケードゲームのドット絵がルーツだ。このデジタル迷彩は後に数多くの模倣を生むことになる。

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アニメやゲームを着想源にして山下が打ち出したファッションは、日本よりも海外で強い支持を受けた。当時、世界のファッションカルチャーを牽引していたイギリスの雑誌「i-D Magazine」や「THE FACE」などで、ロンドンの新進的なスタイリストたちがビューティービーストを「日本のオタクカルチャー」として紹介した。
ジョン・ガリアーノやカール・ラガーフェルドのエピソードについて山下は、「刺繍のクオリティに惹かれたのではないか」と分析するが、もしスウェットパーカのモチーフがセーラームーンでなかったなら、ラガーフェルドは興味を持っただろうか。いくら刺繍が素晴らしくとも、どこにでもあるモチーフのスタジャンを、ジョン・ガリアーノはしげしげと見つめただろうか。「日本のアニメキャラクター」と「桐生の刺繍」という、それまで交わることのなかったふたつの要素による化学反応が、ジョン・ガリアーノやカール・ラガーフェルドを惹きつけたと言えるのではないか。

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山下が見据えるファッション × アニメの現在と未来
冒頭で触れたように、2025年現在日本アニメの人気は全世界に広がったうえに、ファッションとアニメの垣根は完全に取り払われた。山下は「今のような状況はもっと早く来るかと思っていたが、意外と時間がかかった」と感じており、「一部のファンだけのものだったアニメが、コロナ禍以降急速にマスに拡大してコミュニケーションツールのひとつになったことで、キャラクターに対して愛着を持つ人の数も多くなり、昔のような“おたく”だけのものではなく、広く一般的な存在となった」と指摘。直近のアニメTシャツ人気に対しては、「常に自分と向き合って自身のスピリットを表現するのがファッションだと思っているので、アニメTシャツは着ることで安心感を得たり、キャラクターや作品へのリスペクトを共有するためのツールになっているのではないか」と分析する。

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近年のデザイナーズアーカイヴ人気の高まりもあり、ビューティービーストは世界中からの支持を集めている。ビューティービーストのインスタグラムアカウントのフォロワーの半分近くは北米のアカウントで、特にニューヨークとロサンゼルスにファンが多いという。1990年代のビューティービーストの情報はファッション誌などの紙媒体でしか残っておらず、インターネット上にはほとんど存在していないため、山下のもとにはSNSを介して海外の若いファンから多くの連絡が寄せられているそうだ。山下は「SNSのおかげで世界が近くなった」と話し、世界中の若者とのコミュニケーションを楽しんでいる。現在は、ニューヨークに住む20代の二人組デザイナーと、LINEでコミュニケーションを取りながらコラボアイテムを開発中だ。

山下は、2025年のコスパ創業35周年を記念して、「コスパVSビューティービースト」が再始動することを明かしてくれた。90年代当時と同じように、いくつかのアニメ作品とコラボしたアイテムを発売予定だという。また、「ファッション × 漫画」という打ち出しとして、90年代に山下が生み出したウサギのキャラクター「ダークナイト」を主人公とした漫画をインスタグラムで公開することも予定している。さらに現在、「20471120」や「メゾン ミハラヤスヒロ(Maison MIHARA YASUHIRO)」など、90年代当時から親交のあるデザイナーズブランドとのコラボレーションアイテムも展開している。


ビューティービーストとメゾンミハラヤスヒロのコラボスニーカー
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山下は今も、アニメやゲームを楽しんでいる。スマートフォンゲーム「勝利の女神:NIKKE」を「キャラクターがしっかり作り込まれており、グラフィックも美しい」と評し、他に「俺だけレベルアップな件」「私の幸せな結婚」「フルーツバスケット」「トライガン」などのアニメをお気に入りとして挙げる。
近年彼のもとには、ファッションデザイナーを志す若者が多く訪れるというが、そのデザインの対象は服ではなくアニメやゲームなどの衣装だという。山下は今後、アニメやゲームなどとリアルなファッションとの境目がなくなると考えている。リアルな服作りを長年続けてきた山下は、仕立て屋がオーダーメイドで洋服を仕立てるときに客の趣向やこだわりを大切にするように、アニメやゲームの衣装デザイナーもキャラクターの個性を理解してデザインに反映させることが大事だという。山下は、これまでの経験と知識を活かして自身がファッションとキャラクターの架け橋のような存在になれれば、と展望を語る。テクノロジーの進化とともに、ファッション、音楽、アニメ、ゲームをはじめとした様々なカルチャーのクロスオーバーがより顕著になっている。「ファッション × アニメ」の地平を切り開いた山下の、今後の取り組みに注目したい。

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1980年神戸市生まれ。関西学院大学社会学部在学中にファッションデザイナーを志し、卒業後にエスモード大阪校、エスモードインターナショナルパリ校でデザインとパターンを学ぶ。ファッション企画会社、ファッション系ITベンチャーを経て、フリーランスとして活動した後、FASHIONSNAPに参加。ファッションを歴史、文化、政治、経済などの視点から分析し、知的好奇心を刺激する記事を執筆することが目標。3人の子どもと過ごす時間が何よりの楽しみ。

and integrate them seamlessly into the new content without adding new tags. Ensure the new content is fashion-related, written entirely in Japanese, and approximately 1500 words. Conclude with a “結論” section and a well-formatted “よくある質問” section. Avoid including an introduction or a note explaining the process.