
20世紀を代表するファッションデザイナーの一人であるイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)は、「モードの帝王」と呼ばれています。1962年に設立されたブランド「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)」は、現在「サンローラン(SAINT LAURENT)」として知られていますが、その日本上陸の歴史や功績はあまり知られていません。元モード誌編集者で現在ファッションジャーナリストとして活動する横井由利氏が、全5回の連載で知られざるイヴ・サンローランと日本にまつわる歴史を振り返ります。第1回は、日本上陸までの経緯について。
はじめに
「パリはモードの中心」とされる中、1950年代にクチュールメゾンが海外でビジネスを展開し始め、その後アメリカや日本に注目が集まっていました。1953年には「クリスチャン・ディオール(Christian Dior)」と大丸百貨店の独占契約が始まり、クチュールメゾンと百貨店の連携が続きました。
1962年に登場した「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)(以下、サンローラン)」に着目した西武百貨店は、翌年にオートクチュールの独占契約を結び、プレタポルテやライセンス事業を展開しました。同時にランウェイショーや美術展を開催し、サンローランの文化的側面も披露しました。
この連載では、日本とサンローランの関係をビジネスと文化活動の観点から探求していきます(文:横井由利)。
1. 戦後オートクチュールメゾンの世界戦略
第二次世界大戦中、クチュールメゾンは制約の中で活動を縮小しました。しかし、終戦後には新たな時代が幕を開け、パリのモード界に活気が戻りました。1947年にはクリスチャン・ディオールが「ニュールック」と呼ばれるコレクションを発表し、世界中で話題となりました。
ディオールはアメリカ市場で成功を収めた後、次なるターゲットとして日本を選びました。1960年代に入ると、日本のラグジュアリーブランド市場は世界第2位となりました。
*¹ カーメル・スノー:1887-1961年。1920年代に米『ヴォーグ(VOGUE)』の編集者となり、後に『ハーパース・バザー(Happer’s BAZZAR)』に移籍し、24年間編集長を務めました。
2. 日本におけるオートクチュールビジネスの始まり
1960年代まで、日本にはパリのオートクチュールに関する情報は少なかったが、一部の富裕層の女性は既にクチュールメゾンの服を手に入れていました。しかし、オートクチュールの服を身に着けるにはパリに行く必要があり、高額な費用がかかりました。
日本でファッション情報を伝えるメディアは限られており、ファッション専門誌やアパレル企業向けの雑誌などがありました。
日本の高度経済成長期に入ると、クチュールメゾンが日本をビジネスパートナーとして選ぶようになりました。大丸百貨店や髙島屋百貨店などが外国の高級ブランドと契約し、日本にモードの服が普及しました。
*² ルイ フェロー:1950年代に設立されたフランスのブランドで、オートクチュールやプレタポルテを手がけました。
3. サンローラン社、日本上陸の経緯
西武百貨店の堤清二は、パリモードを取り入れようとし、1960年代初めにパリ駐在部を設立しました。その中心にいた邦子は、サンローラン社との独占輸入販売権を獲得しました。その後、サンローラン社と西武百貨店はオートクチュール、プレタポルテ、ライセンス事業を展開し、長年にわたるパートナーシップを築いていきました。
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