Rewrite
日本初のクラブミュージックレーベル「MAJOR FORCE(メジャーフォース)」のオリジナルメンバーであり、長きにわたってシーンを牽引してきたDJ/アーティスト/プロデューサー、K.U.D.Oと高木完が“MAJOR FORCE PRODUCTIONS(メジャーフォース プロダクションズ)”として、本格的に再始動。その新作音源の第1弾シングル『MURDER FACE 2025 REMIX feat. LEO今井』が、『Hypebeast(ハイプビースト)』の展開する音楽ディストリビューション・レーベルブランド「Hypetrak(ハイプトラック)」から“スターウォーズの日”、もとい“メジャーフォースの日”でもある5月4日(日)(“May the 4th”)にリリースされた。
「MAJOR FORCE」は中西俊夫、屋敷豪太、K.U.D.O、高木完、藤原ヒロシの5人によって1988年に設立された音楽レーベル。当時日本では未開拓だったヒップホップやハウスなどのダンスミュージックを独自の解釈で音楽に昇華し、オリジナルのスタイルを確立。スチャダラパーやECDなどのアーティストを輩出し、国内シーンの発展に大きく貢献した。また、彼らはファッションにおいても次世代に大きなインスピレーションを与え、“裏原宿”と呼ばれるシーンを作り上げたデザイナーたちや、海外のクリエーターにもその影響を公言する者は多い。
2000年代以降、レーベルは実質休止状態にあったものの、〈Levi’s®(リーバイス)〉や〈FILA(フィラ)〉〈NEIGHBORHOOD(ネイバーフッド)〉といったブランドとのコラボレーションや、海外レーベルへの楽曲提供、音楽フェスへの出演など、30周年を機に再び動き始めていた「MAJOR FORCE」。2025年、コアメンバーであるK.U.D.Oと高木完がMAJOR FORCE PRODUCTIONSとして、本格的に活動を再開した。彼らは5月の第1弾シングルを皮切りに今後も新作のリリースを控えており、8月にはジャイルス・ピーターソン主催のフェス「We Out Here Festival」のブリストルナイトにて、DJライブを敢行予定だ。
今回『Hypebeast』では、MAJOR FORCE PRODUCTIONSのK.U.D.O &高木完へのインタビューを敢行。「MAJOR FORCE」のはじまりから90〜00年代の活動、今後のプロジェクト、その創作哲学を紐解き、進化を続ける“伝説”の現在地を探る。
Hypebeast:MAJOR FORCEは元々1988年に誕生した音楽レーベルです。2000年代以降、実質レーベル自体は休止していたわけですが、お二人があらためてMAJOR FORCE PRODUCTIONSという名義で活動を始めたきっかけを教えてください。
高木完(以下、T):2000年代、僕とK.U.D.OくんはA BATHING APE®︎(ア・ベイシング・エイプ)が運営してたAPE SOUNDS(エイプ サウンズ)っていうレーベルで一緒に仕事してた。そのレーベルが終わってからも僕らは一緒に曲作りを継続していて、トシちゃん(中西俊夫)や屋敷豪太とも時々音を出したりしてたんだよね。バンド形式でライブやったり。MAJOR FORCE自体はなくなったわけではなくて、ずっと名義としては残ってて。それでレーベル設立30周年にあたる2018年に、Red Bull主催のイベント(RED BULL MUSIC FESTIVAL TOKYO 2018のプログラム MAJOR FORCE BE WITH YOU –30TH ANNIVERSARY-)に出演することになって。そのイベントに向けてまたMAJOR FORCEをやろうかって色々動いてたんだ。
K.U.D.O(以下、K):その前年(2017年)にはFUJI ROCKやGREENROOM FESTIVALにも出たよね? 同時期にハウィー・ビー(Howie B)主宰のPussyfoot(プッシーフット)ってレーベルのコンピに楽曲(Watashi wa Hikari/『Space Is The Plaice』収録)を提供したり、PLASTICS(プラスティックス)の『トップ・シークレット・マン』のカバー(TSM DUB)を作ったり。それがMAJOR FORCE PRODUCTIONSとして活動し始めた最初の頃じゃなかったかな。
T:そうかも。あとはその頃からいろんなブランドからMAJOR FORCEとのコラボレーションのオファーが来るようになって、だったらただ洋服作るだけじゃなくて音も作ろうよって。今回のMURDER FACEのリミックスも、原曲は2020年にbonjour records(ボンジュール・レコード)とのコラボレーションで12インチとUSBだけでリリースしたものだしね。
K:bonjour recordsのお店でイベントやったね。
T:その時に二人で話して、今年はこういう活動をしようっていっぱいリストアップしてたけど、コロナで企画が全部飛んだ。それで少しブランク期間に入って。でもその間も音源を送り合ったりはしてたね。
K:完ちゃんがアコギで歌ったデータをもらって、編集して新しいアレンジにして。そうやって過去の楽曲のアコースティックバージョンをいくつか作りましたね。
T:あとは六本木のレッドドラゴンってお店のために曲を作ったり(笑)。そんな感じで曲のストックがかなり溜まってきたから、そろそろ整理してちゃんとリリースしようかって本格的に動き出したのが去年くらいからかな。
それぞれが単独でも楽曲制作やプロデュースを手掛けていると思いますが、この2人での共同作業を長年続けている理由は何でしょう?
T:それはもう、K.U.D.Oくんのことをめっちゃ信頼してるから。何より僕がK.U.D.Oくんの音が聞きたいっていうのが一番だよね。
K:そんなこと言ってるけど、最終的に完ちゃんのフレーバーが入んないと(曲が)完成しないんですよ。あとは自分1人で篭って作業してるのと、2人で一緒にやるのでは全く違うので。
役割分担といいますか、どういったプロセスで曲が出来上がるんでしょうか?
T:最初はネタを僕が見つけたら、こんな感じでやりたいってK.U.D.Oくんにデータを送って、それをまとめて1回一緒にやり取りしながら、こんな感じでどう?って最終的にできたものをチェックする流れが多いね。もうK.U.D.Oくんが東京を離れてるから、ここ数年はリモートで作業してたんだけど、やっぱり実際に会う機会をもっと増やした方がいいね。
K:もうリモートも飽きてきたしね。
お二人ともいまだに精力的にDJをやられていると思いますが、現場からのフィードバックってご自身の楽曲に反映されたりしますか?
K:イメージはあるんだけどね。もちろん、MAJOR FORCEも始めた当初はクラブミュージックのレーベルって謳ってたから根底にはそういう部分はあると思うんだけど。
T:ベーシックにはあるかもしれないけど、必ずしもオーディエンスに向けてこれやったらウケるとか、こうしたら売れるとかはあまり考えたことないね。フロア向けの曲を仕事で頼まれた場合は別として、自分たちの作品ではその辺は意識しないな。
K:自分たちの好きな音を詰め込んでるだけだよね。
T:むしろこんな音どう?って聴かせる感じ。DJやってる時も、そこにいる全員にウケるために曲をかけるわけじゃないしね。わざと変な音の入ってる曲かけたりして、面白いでしょって。天邪鬼というか、昔からそういうところあるよね。わかる人に刺さって、後から「あれやばかったっす」って言われるの好きだな(笑)。
K:万人にうけるようなものは難しいよね。
T:でもそれがあるから、まだやってるってのもあるかもしれないね。売れることだけを考えてたら、大変でしょ? 流行りにあわせてスタイルをコロコロ変えなきゃいけないし。
K:やっぱ四つ打ちかな、とか。
T:四つ打ちとかトラップだろみたいな(笑)。いやいや今はそっちじゃないでしょ、とかね。流行りものも好きで取り入れるんだけど、全然違う解釈をする方が好きだな。
K:最近現場に出てると、若いDJのかける曲が結構良かったりするんだよね。
T:K.U.D.Oくんは若い人とよくDJやってるもんね。僕もそれで今のトレンドを教わったりする。
K:若い子がこれが最高だってかけてる曲でも、20年ぐらい前に似たようなアイデアあったな、元ネタこれでしょって教えたり。
T:そういえば昔サンプリングネタでリン・コリンズが流行った時、僕らは似たような別のネタ使ったりしてたね(笑)。45キングのネタとして有名なマーヴァ・ホイットニーの曲も、彼が使ってるのとは別の部分をサンプリングしたり。売れてるものからヒントは得て、違うことやるっていう。ずっとそういうスタンスだよね。
先ほども少し触れましたが、再始動第1弾シングル『MURDER FACE 2025 REMIX feat. LEO今井』についてあらためて教えてください。
T:原曲の『MURDER FACE』は、元々はトシちゃんのアイデアから始まったんだ。
K:そうそう、トシちゃんが入院していた病院でBGMとしてかかってた曲にブレイクビーツが入っていて、これ使って何か作ろうって言われて(笑)。
T:それで作ったのが『MURDER FACE』。タイトル凄いよね(笑)。LEOくんが歌詞を書いて、ギターは立花ハジメちゃん、ジャケットは浅野(忠信)くんが描いてくれた。この曲は配信されてないから、音を少しブラッシュアップして配信でもリリースすることにしました。この曲は、原盤権が僕らにあるっていうのは重要。例えば、『LAST ORGY』のリミックスを出したいなと思っても、MAJOR FORCE時代の曲は原盤権が僕らにないから出せない。そういう事情もあって、ここ数年間でMAJOR FORCE PRODUCTIONS名義で作った曲に関しては、全て僕らが原盤権を持ってる。この曲を皮切りに、今年はあと2枚シングルをリリースする予定で、ゆくゆくはアルバムも出したいなと思ってます。
目次
MAJOR FORCE のはじまり
ここからはMAJOR FORCEの歴史についてお聞きしたいです。レーベルはどのように始まったんですか?
T:最初はMELONのマネージメントをしてた事務所の人から、MELONの三人(中西俊夫、屋敷豪太、K.U.D.O)とタイニー・パンクスの二人(高木完、藤原ヒロシ)で一緒になんかやったら面白いんじゃないのって提案があって。だからレーベルというか集合体みたいな感じ。今でいう「チーム友達」みたいな(笑)。それでFILE RECORDS(ファイル レコード)ができて、本格的にレーベルが始まったんだよね。レーベル名は最初僕がMEGA FORCE(メガフォース)ってつけたんだけど、アンスラックスのレーベルと名前が被ってたから、変えてMAJOR FORCEになった。
今でも使われているレーベルロゴはどなたがデザインしたんでしょうか?
T:あれはトシちゃんが手書きしたものを、当時湯村輝彦さんのフラミンゴスタジオにいた関根くんって子が仕上げてくれた。
K:トシちゃんがソニーかどこかの会議室みたいな部屋でサラサラって書いたのをうっすら覚えてる。
T:「これでええんちゃう」みたいな(笑)。多分そんなに真剣に書いてなかったよね? その走り書きみたいなロゴを関根くんが綺麗にしてくれたんだ。彼は当時僕の担当してた宝島のページもデザインしてもらってたし、後にスチャダラパーのロゴも作った。PUBLIC ENEMY(パプリック・エネミー)のターゲットロゴは、チャックDの描いた絵をもとにエリック・ヘイズがデザインしたというエピソードは有名だけど、言ってみれば関根くんは日本のエリック・ヘイズみたいな存在だね(笑)。
ジャケットのアートワークにこだわりはありましたか?
T:いや、特になかったかな。最初はステッカー貼ってあるだけだからね。
K:海外のレーベルの12インチみたいな感じだよね。
当時の日本ではクラブミュージックの12インチを出すという事自体が異例だったわけですよね?
T:そもそもその頃12インチを作る人たちがもういなかった。レコードがCDに切り替わるタイミングだったから、工場もどんどんなくなっていくし、ほとんどのメーカーはレコードから撤退してたよね。レコードプレイヤーも売れないし、もうみんなCDでしょ、って時期だったから。メーカーからは「今レコード作るの?」って言われたけど、僕らとしては「いや、これからはレコードでしょ」って。
K:本格的なクラブ仕様のレコードだったよね。
T:そうそう。だから最初は出すもの全部売れたんだよね。僕らの曲が軒並みインディーチャートに入ってたのを覚えてる。
MAJOR FORCEは「日本初のクラブミュージックレーベル」と言われていますが、音楽的なコンセプトはありましたか?
T:トシちゃんがニューヨークでヒップホップの影響を受けて、サンプリングの質感にすごくハマってたから、そういう音楽をやろうって始めたのがMAJOR FORCE。でもサンプリングネタはニューヨーク・ドールズだったり、僕らが聴いてたロックとか、いわゆる王道のレア・グルーヴとは違う、普通は使わないネタが多かった。アメリカのヒップホップにない独自のものをやるって意識が全員に共通してあったと思う。
K:エキゾチック・ミュージックもよく使ったね。
T:それはヤン富田さんだったり、ピテカン(ピテカントロプス・エレクトス:原宿にあった日本初のクラブ)という環境の影響が大きいね。
K:もともとヒップホップって器の広い音楽だったから。
T:やっぱりニューウェーヴ世代の人たちが集まって、ヒップホップや当時のダンスミュージックに影響を受けて作った音だよね。わかりやすく言うと多分そういうことだと思う。
K:面白いアイデアをヒップホップの手法を使って表現したという感じ。最初の頃は、レコード屋の人にMAJOR FORCEのレコードはどのカテゴリーに入れたらいいか分からないってよく言われた(笑)。
T:でもニューウェーヴがそういうものだったからね。パンクがポストパンクになったり、急にラテンファンクになったり、テクノや実験的な電子音楽の要素もあったり。ヒップホップも、最初はニューウェーヴの延長として日本に紹介されたと思う。ダンスミュージックの新ジャンルみたいな。僕らはブラックミュージックの流れでヒップホップにたどり着いたわけじゃないから。
K:むしろそれまでブラックミュージックはほとんど聴いてなかった(笑)。ヒップホップに出会って、レアグルーヴを掘り出してから色々聴き始めたんだ。
T:日本では当時ブラックミュージック好きな人たちは、ヒップホップのこと馬鹿にしてたんだよ。後にヒップホップで大儲けすることになる某レコード屋も、80年代終わりぐらいまでヒップホップに全然興味なかったからね。PUBLIC ENEMYが初来日した時(1989年)にチャックDをそのレコード屋に連れてったんだけど、店長がチャックDのこと知らないんだよ。
いまでは信じられない話ですね…。ところで、MAJOR FORCEを始めてから周囲の反応はいかがでしたか?
T:僕らの周りはみんな面白がってくれてたよね。MAJOR FORCEから出したいって人も多かったし。当時ヒップホップ、クラブミュージックのレーベルって他になかったから。
MAJOR FORCEの時代で、特に印象深いエピソードはありますか?
T:K.U.D.Oくんと一緒にジャマイカにレコーディングへ行ったのは面白かった。当初T.K.O.のダブやラバーズロックみたいなのを作る目的で行ったんだけど、ミュージックワークスっていうスタジオに案内されて行ったら、その日に泥棒に入られて機材が全部盗まれてた(笑)。しかも僕らの担当のSoldgieっていうエンジニアが、彼女ができたとか言ってニューヨークから帰ってこなくて(笑)
K:こっちは1週間ぐらいの滞在で何曲か仕上げなきゃいけないのに(笑)。
T:最終日にやっと帰ってきて、明け方まで作業してそのまま飛行機に乗って帰るっていう。
(笑)。その時の作品ってリリースされたんですか?
T:出てるよ。Leslie Thunderっていうシンガーの作品(『One In A Million』)と、Sexy T.K.O.の12インチ(『Touch Me, Take Me』)。あれすごいウケたもん。いまだに人気あるよね。
ロンドン・コネクション
90年代にK.U.D.Oさんはロンドンに移住されてますね。
K:当初Love T.K.O.のアルバムを作る目的でロンドンに行ったんだ。部屋を借りてスタジオを作って、環境を整えるところから始めた。でもロンドンでの最初の仕事は完ちゃんのアルバムだよね?
T:そう、『GRASS ROOTS』(1992年)。僕はソロだけじゃなく別のプロジェクトの時も、毎回フィニッシュはK.U.D.Oくんにお願いしにロンドンに行ってた。
K:僕はロンドンに移住してすぐに、ジェームス・ラヴェルと出会ったんだよね。
T:その出会いのエピソードが面白いよね。
K:ジェームスは当時Honest Jon’s(オネスト ジョンズ)っていうレコード屋でバイトしてて。ある時、僕とトシちゃんがその店に入って行ったら、ジェームスが僕らが日本人だとわかった途端に「僕はMAJOR FORCEの大ファンで、特にタイクーントッシュのレコードを探してるんだ」って話しかけてきたんだ。それでトシちゃんが「僕がタイクーントッシュだよ」って(笑)。僕も「K.U.D.Oだ」って名乗って。そこから仲良くなって、一緒に何かやろうってなったんだ。ジェームスはその頃にMo’ Wax(モーワックス)を設立して、UNKLE(アンクル)のプロジェクトをスタートした。UNKLEは当初ジェームスとティム・ゴールズワージー、僕の3人でやってて、『Headz』のコンピレーション(1994年)に入ってる曲は本当に初期の段階のもの。あとその頃にハウィー・ビーとも出会って、Skylab(スカイラブ)ってプロジェクトもやったりしたね。
この時代はMAJOR FORCEとMo’ Waxの連名でのリリースだったり、ロンドンのコネクションが活かされた作品が印象的でした。2000年代になるとお二人はAPE SOUNDSに参加することになるので、90年代で一旦レーベルとしてのMAJOR FORCEは休止状態に入りますね。
T:Mo’ WaxからMAJOR FORCEのボックスセット(『Major Force – The Original Art-Form』1997年)が出て、あれで一区切りというか、初期から90年代の音源を整理した形になるのかな。その後にMAJOR FORCE WEST(メジャーフォース ウエスト)っていう名義でロンドンで録った作品をまとめたコンピ(『MAJOR FORCE WEST ‘93-’97』1999年)も出たよね。
K:あのジャケット見てトシちゃんが激怒したんだ(笑)。なんでこんな写真使ったんだって。
T:確かに変な写真だったね(笑)。
T:当時の話で思い出したんだけど、K.U.D.Oくんがロンドンにいる時に、僕らが昔作ったThe Orchisのインストルメンタルのトラック(『I Will Call You』)をインディペンデントの映画作家が使いたいって言ってるんですけど、よろしいでしょうか?ってソニーの総務から連絡があった。最近もよくそういう連絡があるんだけど、面白そうだから全然いいですよって返事したんだ。で、その話のことは忘れてて、しばらくしてある映画を試写会で観ていたらThe Orchisとそっくりのインストの曲が使われてて。びっくりしてすぐK.U.D.Oくんに電話して「あの話どうなった?」って聞いたら、「マネージャーからあの曲はサンプルネタ多すぎてやばいから使わないでくれって言われて断ったよ」って。その映画は『トレインスポッティング』だったんだよね。
K:あれはやっておけばよかったね…。
APE SOUNDSの時代
K.U.D.Oさんがロンドンから帰国されて、1999年にレーベルAPE SOUNDSがスタートします。
T:K.U.D.OくんがまだMo’ Waxで作業してた頃に、NIGO®️(ニゴー)くんがロンドンによく行っていて。
K:NIGO®️くんがアルバム(『APE SOUNDS』1999年)を作りたいってことで、ロンドンの僕のスタジオに来て一緒に制作してました。日本に帰ってきたタイミングでレーベルを立ち上げることになって、スタジオまで作っちゃったんだよね。
T:それが1999年の終わり頃。そこから10年以上やってたわけだから、2000年代はK.U.D.OくんとAPE SOUNDSのスタジオにいる時間が一番長かった。
APE SOUNDSでの印象的なエピソードはありますか?
T:あの頃はNIGO®️くんがファレル(・ウィリアムス)と仲良くなったことで、色々な人が彼を訪ねてきて面白い時代だった。カニエ・ウェストも最初ファレルの紹介でスタジオに来た時に、すごい礼儀正しかったよ。ラルフローレンみたいな服装でね。K.U.D.Oくんに対しても表敬訪問みたいな挨拶して。そしたらこの人カニエのこと知らないんだもん(笑)。
K:全然覚えてない。
T:僕すごい覚えてる(笑)。K.U.D.Oくんカニエ知らないんだって。まあでも彼もデビューしたばっかりだったし、いまほど有名じゃなかったからね。そういえば、カニエの有名な『Stronger』って曲はAPE SOUNDSのスタジオで録ったんだよね。その頃NIGO®️くんがTERIYAKI BOYZ®(テリヤキ・ボーイズ)のプロジェクトを始めてて、ファレルとか海外のプロデューサーに発注したトラックのミックスをAPE SOUNDSでやってた。TERIYAKI BOYZ®の『Heartbreaker』っていうダフト・パンクがプロデュースした曲があるんだけど、カニエがそのサウンドを聴いて、こんな曲作りたいってできたのが『Stronger』だったみたい。
NIGO®️さんが徐々にアメリカのヒップホップのサウンドに傾倒していく一方で、お二人はまた独自の方向性のサウンドを追求していったわけですよね。APE SOUNDS時代のリリースで、思い入れのある作品はどれですか?
T:NIGO®️くんのオファーでプロデュースしたCHERIE(シェリー)っていう女性シンガーのアルバム(『CHERIE』2002年)はいま聴いても良いと思う。ジャケットもKAWS(カウズ)やさくらももこさんに描いてもらったり。
K:あれは良くできてるよね。この前たまたま久しぶりに聴いたら「え、なにこれすごいじゃん」って。
T:自分でやってて忘れてるっていう(笑)。あとはボアダムスのヨシミちゃんに参加してもらった曲(J.O.Y.『Sunplus』2005年)とか。あの曲は元Mo’ Waxのティム・ゴールズワージーがDFA Recordsを立ち上げてて、彼経由でジェームス・マーフィーが聴いて気に入ってくれたんだよね。ジェームスもMAJOR FORCEのファンだったみたいで、ぜひやりたいって言ってくれて、DFAからもリリースされた。
K:『Magnolia』(2003年)のアルバムも良かったね。
T:他にも映画音楽も作ったり、色々やりましたね。
MAJOR FORCE が起こす“新しい波”
お二人の活動をざっくり振り返ってきましたが、あらためてMAJOR FORCEの功績や、後続のアーティストに与えた影響って何だと思いますか?
T:何だろうね? MAJOR FORCEって、影響受けて同じようなことをやろうとしてもすごく難しいんじゃないかな。これが第二のMAJOR FORCEだと言えるようなものは知る限りないしね。
K:MAJOR FORCEってこういうスタイル、という確立されたものがないんだ。
T:そこが面白いとこでもあると思う。ロゴはきっちりしてるのに、出してるものはなんなんだろうみたいな。カテゴライズできない。なんかひとつのメディアのようなものかもしれない。
K:カテゴライズされるのが苦手なんだよね。
T:昔からそうだよね。MAJOR FORCEが始まった時も、最初「ヒップホップ最高!」なんて言って僕もどんどんのめり込んでいくんだけど、ニューヨークに行くようになって本場のヒップホップのシーンを知ると、結構ハードコアなんだなと思って。その世界を突き詰めていく人はかっこいいけど、自分はなんか違うかもって徐々に気づくんだよね。ヒロシが最初に気づいていち早く抜けて(笑)、トシちゃん、豪太もそれに続いて。サウンド的には今でもヒップホップは好きだし、それっぽいものは作れるけど、自分も最終的にはそんなヒップホップじゃないなって。
K:自分たちの音楽をヒップホップってカテゴリーで括られること自体が足かせになってるんだよね。
T:ヒップホップって当初はすごい自由だったはずなのに。型にはまったものになってからは、「これヒップホップから外れちゃうんじゃないか」って思ってしまうのがつまらないよね。だって、ビートがなくても別にいいじゃん。
K:極端に言うとそうなっちゃうよね。
T:やっぱり僕らはニューウェーヴに影響を受けて音楽を作り始めた世代だから、その頃の「何でもアリ」な自由な感覚がずっと残ってる。そういえば、最近はラップでもちょっと変わったアーティストが出てきたよね。例えば今年出たプレイボーイ・カーティの新譜(『MUSIC』)とか、あれ全然変なロックじゃん。電子音楽とロックみたいな。あの音で売れてるのは凄いよね。彼は少し前にもセディショナリーズの服着てたし、僕らの感覚と通ずるところがあるかもしれない。そういう人たちが増えてきてるし、時代がニューウェーヴっぽい感覚を受け入れるようになってきているのかもね。
やっと時代がMAJOR FORCEに追いついたのかもしれないですね。MAJOR FORCE PRODUCTIONSとしては、8月にジャイルス・ピーターソン主催のフェス「We Out Here Festival」への出演が決定しています。これはどういった経緯で決まったんですか?
T:ジャイルスのことはもちろん昔から知ってるし、彼の奥さんとも友達なんだ。彼女と以前大阪で会った時に「たまには呼んでよ」って言ったら、「わかった、(ジャイルスに)言っておく!」って。
K:そしたら出演が決まっちゃった(笑)。
出演者のラインアップを見たら、ワイルド・バンチ(マッシヴ・アタックの前身のDJクルー)のDJ マイロ(DJ Nature名義での参加)や、マッシヴ・アタックのダディー・G、それにドン・レッツまで、お二人と縁のある面々が揃ってますね。
T:ジャイルスも僕らに寄せてくれたんじゃないかな。マッシヴ・アタック系とMAJOR FORCE系の人選で。そういえば僕らが『LAST ORGY』でサンプリングした『Iron Leg』(Mickey & the Soul Generation)のレコードは、最初ジャイルスがくれたんだ(笑)。それはともかく、ロンドンに行くのは久しぶりだから楽しみだね。そのフェスが終わった後に3枚目のシングルに取り掛かろうかなと思ってる。現地での経験が良い形で反映されたら面白いよね。
(左)K.U.D.O(工藤昌之)
世界トップクラスのサウンドクリエイターであり日本のヒップホップのオリジネイター。1980年代に元プラスチックスの中西俊夫、佐藤チカを中心としたバンド MELONに屋敷豪太と共に参加。1988年、高木完、藤原ヒロシ、中西俊夫、屋敷豪太と日本初のヒップホップ/クラブ・ミュージック・レーベル「MAJOR FORCE」を創立し、スチャダラパーやECDらを輩出。1992年制作活動の場をロンドンに移し、「『MO’WAX」のオーナー、ジェームス・ラヴェルと共にU.N.K.L.E.を結成。Massive Attack、Beck、Jon Spencer Blues Explosion、Conelius、Mr.Children等数々のリミックスを手掛ける。2000年代、帰国後は高木完と共に”A Bathing Ape”NIGO氏のレーベル「APE SOUNDS」で活動を始め、多数のプロデュース、リミックス作品を残す。その他UNDER COVER、NUMBER NINE、TAKEO KIKUCHIなどのショー音楽も手掛ける。現在はフリーとして活動。近年では藤原ヒロシと共にマイケル・ジャクソンの公式リミックス・アルバム『MICHAEL JACKSON/JACKSON5 REMIXES』を発表。
(右)高木完
DJ音楽プロデューサー/クリエイティブ・ディレクタ-、K.A.N CO.LTD 代表取締役。1970年代にロンドンパンクに衝撃を受け、東京ブラボーを結成、デビュー。80年代にDJスタート。雑誌『ポパイ』『ホットドッグ・プレス』等でライターとしても活躍。藤原ヒロシとタイニー・パンクスを結成。雑誌『宝島』での連載『LAST ORGY』が話題となり「要チェック!」という流行語を生み出す。ニューヨークで衝撃を受けたヒップ・ホップを、いとうせいこう達と日本に伝導。日本初のヒップホップ/クラブ・ミュージック・レーベル「MAJOR FORCE」を、藤原ヒロシ、屋敷豪太、工藤昌之、中西俊夫と設立。スチャダラパー、ECD等を世に送り出す。90年代ソロアーティストとして活躍。21世紀、NIGOとA BATHING APEレーベル『APESOUNDS』、高橋盾と『UNDERCOVER』のサウンド、香港『SILLYTHING』クリエイティブ・ディレクション等。
【MAJOR FORCE PRODUCTIONS イベント出演情報】
GMB SATURDAY
MAJOR FORCE DJ SET(K.U.D.O & KAN TAKAGI)
日程:2025年7月26日(土)
会場:GINZA MUSIC BAR
住所:東京都中央区銀座7-8-13 ブラウンプレイス4F
TEL:03-3572-3666
OPEN/START 19:00 CLOSE 4:00
(*開始時間に関しては状況で前後する可能性あり。予めご了承ください)
公式サイト
Giles Peterson Presents – We Out Here Festival
開催日程:2025年8月14日〜17日
会場:Wimborne St Giles, Wimborne BH21 5NA, United Kingdom
公式サイト
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日本初のクラブミュージックレーベル「MAJOR FORCE(メジャーフォース)」のオリジナルメンバーであり、長きにわたってシーンを牽引してきたDJ/アーティスト/プロデューサー、K.U.D.Oと高木完が“MAJOR FORCE PRODUCTIONS(メジャーフォース プロダクションズ)”として、本格的に再始動。その新作音源の第1弾シングル『MURDER FACE 2025 REMIX feat. LEO今井』が、『Hypebeast(ハイプビースト)』の展開する音楽ディストリビューション・レーベルブランド「Hypetrak(ハイプトラック)」から“スターウォーズの日”、もとい“メジャーフォースの日”でもある5月4日(日)(“May the 4th”)にリリースされた。
「MAJOR FORCE」は中西俊夫、屋敷豪太、K.U.D.O、高木完、藤原ヒロシの5人によって1988年に設立された音楽レーベル。当時日本では未開拓だったヒップホップやハウスなどのダンスミュージックを独自の解釈で音楽に昇華し、オリジナルのスタイルを確立。スチャダラパーやECDなどのアーティストを輩出し、国内シーンの発展に大きく貢献した。また、彼らはファッションにおいても次世代に大きなインスピレーションを与え、“裏原宿”と呼ばれるシーンを作り上げたデザイナーたちや、海外のクリエーターにもその影響を公言する者は多い。
2000年代以降、レーベルは実質休止状態にあったものの、〈Levi’s®(リーバイス)〉や〈FILA(フィラ)〉〈NEIGHBORHOOD(ネイバーフッド)〉といったブランドとのコラボレーションや、海外レーベルへの楽曲提供、音楽フェスへの出演など、30周年を機に再び動き始めていた「MAJOR FORCE」。2025年、コアメンバーであるK.U.D.Oと高木完がMAJOR FORCE PRODUCTIONSとして、本格的に活動を再開した。彼らは5月の第1弾シングルを皮切りに今後も新作のリリースを控えており、8月にはジャイルス・ピーターソン主催のフェス「We Out Here Festival」のブリストルナイトにて、DJライブを敢行予定だ。
今回『Hypebeast』では、MAJOR FORCE PRODUCTIONSのK.U.D.O &高木完へのインタビューを敢行。「MAJOR FORCE」のはじまりから90〜00年代の活動、今後のプロジェクト、その創作哲学を紐解き、進化を続ける“伝説”の現在地を探る。
Hypebeast:MAJOR FORCEは元々1988年に誕生した音楽レーベルです。2000年代以降、実質レーベル自体は休止していたわけですが、お二人があらためてMAJOR FORCE PRODUCTIONSという名義で活動を始めたきっかけを教えてください。
高木完(以下、T):2000年代、僕とK.U.D.OくんはA BATHING APE®︎(ア・ベイシング・エイプ)が運営してたAPE SOUNDS(エイプ サウンズ)っていうレーベルで一緒に仕事してた。そのレーベルが終わってからも僕らは一緒に曲作りを継続していて、トシちゃん(中西俊夫)や屋敷豪太とも時々音を出したりしてたんだよね。バンド形式でライブやったり。MAJOR FORCE自体はなくなったわけではなくて、ずっと名義としては残ってて。それでレーベル設立30周年にあたる2018年に、Red Bull主催のイベント(RED BULL MUSIC FESTIVAL TOKYO 2018のプログラム MAJOR FORCE BE WITH YOU –30TH ANNIVERSARY-)に出演することになって。そのイベントに向けてまたMAJOR FORCEをやろうかって色々動いてたんだ。
K.U.D.O(以下、K):その前年(2017年)にはFUJI ROCKやGREENROOM FESTIVALにも出たよね? 同時期にハウィー・ビー(Howie B)主宰のPussyfoot(プッシーフット)ってレーベルのコンピに楽曲(Watashi wa Hikari/『Space Is The Plaice』収録)を提供したり、PLASTICS(プラスティックス)の『トップ・シークレット・マン』のカバー(TSM DUB)を作ったり。それがMAJOR FORCE PRODUCTIONSとして活動し始めた最初の頃じゃなかったかな。
T:そうかも。あとはその頃からいろんなブランドからMAJOR FORCEとのコラボレーションのオファーが来るようになって、だったらただ洋服作るだけじゃなくて音も作ろうよって。今回のMURDER FACEのリミックスも、原曲は2020年にbonjour records(ボンジュール・レコード)とのコラボレーションで12インチとUSBだけでリリースしたものだしね。
K:bonjour recordsのお店でイベントやったね。
T:その時に二人で話して、今年はこういう活動をしようっていっぱいリストアップしてたけど、コロナで企画が全部飛んだ。それで少しブランク期間に入って。でもその間も音源を送り合ったりはしてたね。
K:完ちゃんがアコギで歌ったデータをもらって、編集して新しいアレンジにして。そうやって過去の楽曲のアコースティックバージョンをいくつか作りましたね。
T:あとは六本木のレッドドラゴンってお店のために曲を作ったり(笑)。そんな感じで曲のストックがかなり溜まってきたから、そろそろ整理してちゃんとリリースしようかって本格的に動き出したのが去年くらいからかな。
それぞれが単独でも楽曲制作やプロデュースを手掛けていると思いますが、この2人での共同作業を長年続けている理由は何でしょう?
T:それはもう、K.U.D.Oくんのことをめっちゃ信頼してるから。何より僕がK.U.D.Oくんの音が聞きたいっていうのが一番だよね。
K:そんなこと言ってるけど、最終的に完ちゃんのフレーバーが入んないと(曲が)完成しないんですよ。あとは自分1人で篭って作業してるのと、2人で一緒にやるのでは全く違うので。
役割分担といいますか、どういったプロセスで曲が出来上がるんでしょうか?
T:最初はネタを僕が見つけたら、こんな感じでやりたいってK.U.D.Oくんにデータを送って、それをまとめて1回一緒にやり取りしながら、こんな感じでどう?って最終的にできたものをチェックする流れが多いね。もうK.U.D.Oくんが東京を離れてるから、ここ数年はリモートで作業してたんだけど、やっぱり実際に会う機会をもっと増やした方がいいね。
K:もうリモートも飽きてきたしね。
お二人ともいまだに精力的にDJをやられていると思いますが、現場からのフィードバックってご自身の楽曲に反映されたりしますか?
K:イメージはあるんだけどね。もちろん、MAJOR FORCEも始めた当初はクラブミュージックのレーベルって謳ってたから根底にはそういう部分はあると思うんだけど。
T:ベーシックにはあるかもしれないけど、必ずしもオーディエンスに向けてこれやったらウケるとか、こうしたら売れるとかはあまり考えたことないね。フロア向けの曲を仕事で頼まれた場合は別として、自分たちの作品ではその辺は意識しないな。
K:自分たちの好きな音を詰め込んでるだけだよね。
T:むしろこんな音どう?って聴かせる感じ。DJやってる時も、そこにいる全員にウケるために曲をかけるわけじゃないしね。わざと変な音の入ってる曲かけたりして、面白いでしょって。天邪鬼というか、昔からそういうところあるよね。わかる人に刺さって、後から「あれやばかったっす」って言われるの好きだな(笑)。
K:万人にうけるようなものは難しいよね。
T:でもそれがあるから、まだやってるってのもあるかもしれないね。売れることだけを考えてたら、大変でしょ? 流行りにあわせてスタイルをコロコロ変えなきゃいけないし。
K:やっぱ四つ打ちかな、とか。
T:四つ打ちとかトラップだろみたいな(笑)。いやいや今はそっちじゃないでしょ、とかね。流行りものも好きで取り入れるんだけど、全然違う解釈をする方が好きだな。
K:最近現場に出てると、若いDJのかける曲が結構良かったりするんだよね。
T:K.U.D.Oくんは若い人とよくDJやってるもんね。僕もそれで今のトレンドを教わったりする。
K:若い子がこれが最高だってかけてる曲でも、20年ぐらい前に似たようなアイデアあったな、元ネタこれでしょって教えたり。
T:そういえば昔サンプリングネタでリン・コリンズが流行った時、僕らは似たような別のネタ使ったりしてたね(笑)。45キングのネタとして有名なマーヴァ・ホイットニーの曲も、彼が使ってるのとは別の部分をサンプリングしたり。売れてるものからヒントは得て、違うことやるっていう。ずっとそういうスタンスだよね。
先ほども少し触れましたが、再始動第1弾シングル『MURDER FACE 2025 REMIX feat. LEO今井』についてあらためて教えてください。
T:原曲の『MURDER FACE』は、元々はトシちゃんのアイデアから始まったんだ。
K:そうそう、トシちゃんが入院していた病院でBGMとしてかかってた曲にブレイクビーツが入っていて、これ使って何か作ろうって言われて(笑)。
T:それで作ったのが『MURDER FACE』。タイトル凄いよね(笑)。LEOくんが歌詞を書いて、ギターは立花ハジメちゃん、ジャケットは浅野(忠信)くんが描いてくれた。この曲は配信されてないから、音を少しブラッシュアップして配信でもリリースすることにしました。この曲は、原盤権が僕らにあるっていうのは重要。例えば、『LAST ORGY』のリミックスを出したいなと思っても、MAJOR FORCE時代の曲は原盤権が僕らにないから出せない。そういう事情もあって、ここ数年間でMAJOR FORCE PRODUCTIONS名義で作った曲に関しては、全て僕らが原盤権を持ってる。この曲を皮切りに、今年はあと2枚シングルをリリースする予定で、ゆくゆくはアルバムも出したいなと思ってます。
MAJOR FORCE のはじまり
ここからはMAJOR FORCEの歴史についてお聞きしたいです。レーベルはどのように始まったんですか?
T:最初はMELONのマネージメントをしてた事務所の人から、MELONの三人(中西俊夫、屋敷豪太、K.U.D.O)とタイニー・パンクスの二人(高木完、藤原ヒロシ)で一緒になんかやったら面白いんじゃないのって提案があって。だからレーベルというか集合体みたいな感じ。今でいう「チーム友達」みたいな(笑)。それでFILE RECORDS(ファイル レコード)ができて、本格的にレーベルが始まったんだよね。レーベル名は最初僕がMEGA FORCE(メガフォース)ってつけたんだけど、アンスラックスのレーベルと名前が被ってたから、変えてMAJOR FORCEになった。
今でも使われているレーベルロゴはどなたがデザインしたんでしょうか?
T:あれはトシちゃんが手書きしたものを、当時湯村輝彦さんのフラミンゴスタジオにいた関根くんって子が仕上げてくれた。
K:トシちゃんがソニーかどこかの会議室みたいな部屋でサラサラって書いたのをうっすら覚えてる。
T:「これでええんちゃう」みたいな(笑)。多分そんなに真剣に書いてなかったよね? その走り書きみたいなロゴを関根くんが綺麗にしてくれたんだ。彼は当時僕の担当してた宝島のページもデザインしてもらってたし、後にスチャダラパーのロゴも作った。PUBLIC ENEMY(パプリック・エネミー)のターゲットロゴは、チャックDの描いた絵をもとにエリック・ヘイズがデザインしたというエピソードは有名だけど、言ってみれば関根くんは日本のエリック・ヘイズみたいな存在だね(笑)。
ジャケットのアートワークにこだわりはありましたか?
T:いや、特になかったかな。最初はステッカー貼ってあるだけだからね。
K:海外のレーベルの12インチみたいな感じだよね。
当時の日本ではクラブミュージックの12インチを出すという事自体が異例だったわけですよね?
T:そもそもその頃12インチを作る人たちがもういなかった。レコードがCDに切り替わるタイミングだったから、工場もどんどんなくなっていくし、ほとんどのメーカーはレコードから撤退してたよね。レコードプレイヤーも売れないし、もうみんなCDでしょ、って時期だったから。メーカーからは「今レコード作るの?」って言われたけど、僕らとしては「いや、これからはレコードでしょ」って。
K:本格的なクラブ仕様のレコードだったよね。
T:そうそう。だから最初は出すもの全部売れたんだよね。僕らの曲が軒並みインディーチャートに入ってたのを覚えてる。
MAJOR FORCEは「日本初のクラブミュージックレーベル」と言われていますが、音楽的なコンセプトはありましたか?
T:トシちゃんがニューヨークでヒップホップの影響を受けて、サンプリングの質感にすごくハマってたから、そういう音楽をやろうって始めたのがMAJOR FORCE。でもサンプリングネタはニューヨーク・ドールズだったり、僕らが聴いてたロックとか、いわゆる王道のレア・グルーヴとは違う、普通は使わないネタが多かった。アメリカのヒップホップにない独自のものをやるって意識が全員に共通してあったと思う。
K:エキゾチック・ミュージックもよく使ったね。
T:それはヤン富田さんだったり、ピテカン(ピテカントロプス・エレクトス:原宿にあった日本初のクラブ)という環境の影響が大きいね。
K:もともとヒップホップって器の広い音楽だったから。
T:やっぱりニューウェーヴ世代の人たちが集まって、ヒップホップや当時のダンスミュージックに影響を受けて作った音だよね。わかりやすく言うと多分そういうことだと思う。
K:面白いアイデアをヒップホップの手法を使って表現したという感じ。最初の頃は、レコード屋の人にMAJOR FORCEのレコードはどのカテゴリーに入れたらいいか分からないってよく言われた(笑)。
T:でもニューウェーヴがそういうものだったからね。パンクがポストパンクになったり、急にラテンファンクになったり、テクノや実験的な電子音楽の要素もあったり。ヒップホップも、最初はニューウェーヴの延長として日本に紹介されたと思う。ダンスミュージックの新ジャンルみたいな。僕らはブラックミュージックの流れでヒップホップにたどり着いたわけじゃないから。
K:むしろそれまでブラックミュージックはほとんど聴いてなかった(笑)。ヒップホップに出会って、レアグルーヴを掘り出してから色々聴き始めたんだ。
T:日本では当時ブラックミュージック好きな人たちは、ヒップホップのこと馬鹿にしてたんだよ。後にヒップホップで大儲けすることになる某レコード屋も、80年代終わりぐらいまでヒップホップに全然興味なかったからね。PUBLIC ENEMYが初来日した時(1989年)にチャックDをそのレコード屋に連れてったんだけど、店長がチャックDのこと知らないんだよ。
いまでは信じられない話ですね…。ところで、MAJOR FORCEを始めてから周囲の反応はいかがでしたか?
T:僕らの周りはみんな面白がってくれてたよね。MAJOR FORCEから出したいって人も多かったし。当時ヒップホップ、クラブミュージックのレーベルって他になかったから。
MAJOR FORCEの時代で、特に印象深いエピソードはありますか?
T:K.U.D.Oくんと一緒にジャマイカにレコーディングへ行ったのは面白かった。当初T.K.O.のダブやラバーズロックみたいなのを作る目的で行ったんだけど、ミュージックワークスっていうスタジオに案内されて行ったら、その日に泥棒に入られて機材が全部盗まれてた(笑)。しかも僕らの担当のSoldgieっていうエンジニアが、彼女ができたとか言ってニューヨークから帰ってこなくて(笑)
K:こっちは1週間ぐらいの滞在で何曲か仕上げなきゃいけないのに(笑)。
T:最終日にやっと帰ってきて、明け方まで作業してそのまま飛行機に乗って帰るっていう。
(笑)。その時の作品ってリリースされたんですか?
T:出てるよ。Leslie Thunderっていうシンガーの作品(『One In A Million』)と、Sexy T.K.O.の12インチ(『Touch Me, Take Me』)。あれすごいウケたもん。いまだに人気あるよね。
ロンドン・コネクション
90年代にK.U.D.Oさんはロンドンに移住されてますね。
K:当初Love T.K.O.のアルバムを作る目的でロンドンに行ったんだ。部屋を借りてスタジオを作って、環境を整えるところから始めた。でもロンドンでの最初の仕事は完ちゃんのアルバムだよね?
T:そう、『GRASS ROOTS』(1992年)。僕はソロだけじゃなく別のプロジェクトの時も、毎回フィニッシュはK.U.D.Oくんにお願いしにロンドンに行ってた。
K:僕はロンドンに移住してすぐに、ジェームス・ラヴェルと出会ったんだよね。
T:その出会いのエピソードが面白いよね。
K:ジェームスは当時Honest Jon’s(オネスト ジョンズ)っていうレコード屋でバイトしてて。ある時、僕とトシちゃんがその店に入って行ったら、ジェームスが僕らが日本人だとわかった途端に「僕はMAJOR FORCEの大ファンで、特にタイクーントッシュのレコードを探してるんだ」って話しかけてきたんだ。それでトシちゃんが「僕がタイクーントッシュだよ」って(笑)。僕も「K.U.D.Oだ」って名乗って。そこから仲良くなって、一緒に何かやろうってなったんだ。ジェームスはその頃にMo’ Wax(モーワックス)を設立して、UNKLE(アンクル)のプロジェクトをスタートした。UNKLEは当初ジェームスとティム・ゴールズワージー、僕の3人でやってて、『Headz』のコンピレーション(1994年)に入ってる曲は本当に初期の段階のもの。あとその頃にハウィー・ビーとも出会って、Skylab(スカイラブ)ってプロジェクトもやったりしたね。
この時代はMAJOR FORCEとMo’ Waxの連名でのリリースだったり、ロンドンのコネクションが活かされた作品が印象的でした。2000年代になるとお二人はAPE SOUNDSに参加することになるので、90年代で一旦レーベルとしてのMAJOR FORCEは休止状態に入りますね。
T:Mo’ WaxからMAJOR FORCEのボックスセット(『Major Force – The Original Art-Form』1997年)が出て、あれで一区切りというか、初期から90年代の音源を整理した形になるのかな。その後にMAJOR FORCE WEST(メジャーフォース ウエスト)っていう名義でロンドンで録った作品をまとめたコンピ(『MAJOR FORCE WEST ‘93-’97』1999年)も出たよね。
K:あのジャケット見てトシちゃんが激怒したんだ(笑)。なんでこんな写真使ったんだって。
T:確かに変な写真だったね(笑)。
T:当時の話で思い出したんだけど、K.U.D.Oくんがロンドンにいる時に、僕らが昔作ったThe Orchisのインストルメンタルのトラック(『I Will Call You』)をインディペンデントの映画作家が使いたいって言ってるんですけど、よろしいでしょうか?ってソニーの総務から連絡があった。最近もよくそういう連絡があるんだけど、面白そうだから全然いいですよって返事したんだ。で、その話のことは忘れてて、しばらくしてある映画を試写会で観ていたらThe Orchisとそっくりのインストの曲が使われてて。びっくりしてすぐK.U.D.Oくんに電話して「あの話どうなった?」って聞いたら、「マネージャーからあの曲はサンプルネタ多すぎてやばいから使わないでくれって言われて断ったよ」って。その映画は『トレインスポッティング』だったんだよね。
K:あれはやっておけばよかったね…。
APE SOUNDSの時代
K.U.D.Oさんがロンドンから帰国されて、1999年にレーベルAPE SOUNDSがスタートします。
T:K.U.D.OくんがまだMo’ Waxで作業してた頃に、NIGO®️(ニゴー)くんがロンドンによく行っていて。
K:NIGO®️くんがアルバム(『APE SOUNDS』1999年)を作りたいってことで、ロンドンの僕のスタジオに来て一緒に制作してました。日本に帰ってきたタイミングでレーベルを立ち上げることになって、スタジオまで作っちゃったんだよね。
T:それが1999年の終わり頃。そこから10年以上やってたわけだから、2000年代はK.U.D.OくんとAPE SOUNDSのスタジオにいる時間が一番長かった。
APE SOUNDSでの印象的なエピソードはありますか?
T:あの頃はNIGO®️くんがファレル(・ウィリアムス)と仲良くなったことで、色々な人が彼を訪ねてきて面白い時代だった。カニエ・ウェストも最初ファレルの紹介でスタジオに来た時に、すごい礼儀正しかったよ。ラルフローレンみたいな服装でね。K.U.D.Oくんに対しても表敬訪問みたいな挨拶して。そしたらこの人カニエのこと知らないんだもん(笑)。
K:全然覚えてない。
T:僕すごい覚えてる(笑)。K.U.D.Oくんカニエ知らないんだって。まあでも彼もデビューしたばっかりだったし、いまほど有名じゃなかったからね。そういえば、カニエの有名な『Stronger』って曲はAPE SOUNDSのスタジオで録ったんだよね。その頃NIGO®️くんがTERIYAKI BOYZ®(テリヤキ・ボーイズ)のプロジェクトを始めてて、ファレルとか海外のプロデューサーに発注したトラックのミックスをAPE SOUNDSでやってた。TERIYAKI BOYZ®の『Heartbreaker』っていうダフト・パンクがプロデュースした曲があるんだけど、カニエがそのサウンドを聴いて、こんな曲作りたいってできたのが『Stronger』だったみたい。
NIGO®️さんが徐々にアメリカのヒップホップのサウンドに傾倒していく一方で、お二人はまた独自の方向性のサウンドを追求していったわけですよね。APE SOUNDS時代のリリースで、思い入れのある作品はどれですか?
T:NIGO®️くんのオファーでプロデュースしたCHERIE(シェリー)っていう女性シンガーのアルバム(『CHERIE』2002年)はいま聴いても良いと思う。ジャケットもKAWS(カウズ)やさくらももこさんに描いてもらったり。
K:あれは良くできてるよね。この前たまたま久しぶりに聴いたら「え、なにこれすごいじゃん」って。
T:自分でやってて忘れてるっていう(笑)。あとはボアダムスのヨシミちゃんに参加してもらった曲(J.O.Y.『Sunplus』2005年)とか。あの曲は元Mo’ Waxのティム・ゴールズワージーがDFA Recordsを立ち上げてて、彼経由でジェームス・マーフィーが聴いて気に入ってくれたんだよね。ジェームスもMAJOR FORCEのファンだったみたいで、ぜひやりたいって言ってくれて、DFAからもリリースされた。
K:『Magnolia』(2003年)のアルバムも良かったね。
T:他にも映画音楽も作ったり、色々やりましたね。
MAJOR FORCE が起こす“新しい波”
お二人の活動をざっくり振り返ってきましたが、あらためてMAJOR FORCEの功績や、後続のアーティストに与えた影響って何だと思いますか?
T:何だろうね? MAJOR FORCEって、影響受けて同じようなことをやろうとしてもすごく難しいんじゃないかな。これが第二のMAJOR FORCEだと言えるようなものは知る限りないしね。
K:MAJOR FORCEってこういうスタイル、という確立されたものがないんだ。
T:そこが面白いとこでもあると思う。ロゴはきっちりしてるのに、出してるものはなんなんだろうみたいな。カテゴライズできない。なんかひとつのメディアのようなものかもしれない。
K:カテゴライズされるのが苦手なんだよね。
T:昔からそうだよね。MAJOR FORCEが始まった時も、最初「ヒップホップ最高!」なんて言って僕もどんどんのめり込んでいくんだけど、ニューヨークに行くようになって本場のヒップホップのシーンを知ると、結構ハードコアなんだなと思って。その世界を突き詰めていく人はかっこいいけど、自分はなんか違うかもって徐々に気づくんだよね。ヒロシが最初に気づいていち早く抜けて(笑)、トシちゃん、豪太もそれに続いて。サウンド的には今でもヒップホップは好きだし、それっぽいものは作れるけど、自分も最終的にはそんなヒップホップじゃないなって。
K:自分たちの音楽をヒップホップってカテゴリーで括られること自体が足かせになってるんだよね。
T:ヒップホップって当初はすごい自由だったはずなのに。型にはまったものになってからは、「これヒップホップから外れちゃうんじゃないか」って思ってしまうのがつまらないよね。だって、ビートがなくても別にいいじゃん。
K:極端に言うとそうなっちゃうよね。
T:やっぱり僕らはニューウェーヴに影響を受けて音楽を作り始めた世代だから、その頃の「何でもアリ」な自由な感覚がずっと残ってる。そういえば、最近はラップでもちょっと変わったアーティストが出てきたよね。例えば今年出たプレイボーイ・カーティの新譜(『MUSIC』)とか、あれ全然変なロックじゃん。電子音楽とロックみたいな。あの音で売れてるのは凄いよね。彼は少し前にもセディショナリーズの服着てたし、僕らの感覚と通ずるところがあるかもしれない。そういう人たちが増えてきてるし、時代がニューウェーヴっぽい感覚を受け入れるようになってきているのかもね。
やっと時代がMAJOR FORCEに追いついたのかもしれないですね。MAJOR FORCE PRODUCTIONSとしては、8月にジャイルス・ピーターソン主催のフェス「We Out Here Festival」への出演が決定しています。これはどういった経緯で決まったんですか?
T:ジャイルスのことはもちろん昔から知ってるし、彼の奥さんとも友達なんだ。彼女と以前大阪で会った時に「たまには呼んでよ」って言ったら、「わかった、(ジャイルスに)言っておく!」って。
K:そしたら出演が決まっちゃった(笑)。
出演者のラインアップを見たら、ワイルド・バンチ(マッシヴ・アタックの前身のDJクルー)のDJ マイロ(DJ Nature名義での参加)や、マッシヴ・アタックのダディー・G、それにドン・レッツまで、お二人と縁のある面々が揃ってますね。
T:ジャイルスも僕らに寄せてくれたんじゃないかな。マッシヴ・アタック系とMAJOR FORCE系の人選で。そういえば僕らが『LAST ORGY』でサンプリングした『Iron Leg』(Mickey & the Soul Generation)のレコードは、最初ジャイルスがくれたんだ(笑)。それはともかく、ロンドンに行くのは久しぶりだから楽しみだね。そのフェスが終わった後に3枚目のシングルに取り掛かろうかなと思ってる。現地での経験が良い形で反映されたら面白いよね。
(左)K.U.D.O(工藤昌之)
世界トップクラスのサウンドクリエイターであり日本のヒップホップのオリジネイター。1980年代に元プラスチックスの中西俊夫、佐藤チカを中心としたバンド MELONに屋敷豪太と共に参加。1988年、高木完、藤原ヒロシ、中西俊夫、屋敷豪太と日本初のヒップホップ/クラブ・ミュージック・レーベル「MAJOR FORCE」を創立し、スチャダラパーやECDらを輩出。1992年制作活動の場をロンドンに移し、「『MO’WAX」のオーナー、ジェームス・ラヴェルと共にU.N.K.L.E.を結成。Massive Attack、Beck、Jon Spencer Blues Explosion、Conelius、Mr.Children等数々のリミックスを手掛ける。2000年代、帰国後は高木完と共に”A Bathing Ape”NIGO氏のレーベル「APE SOUNDS」で活動を始め、多数のプロデュース、リミックス作品を残す。その他UNDER COVER、NUMBER NINE、TAKEO KIKUCHIなどのショー音楽も手掛ける。現在はフリーとして活動。近年では藤原ヒロシと共にマイケル・ジャクソンの公式リミックス・アルバム『MICHAEL JACKSON/JACKSON5 REMIXES』を発表。
(右)高木完
DJ音楽プロデューサー/クリエイティブ・ディレクタ-、K.A.N CO.LTD 代表取締役。1970年代にロンドンパンクに衝撃を受け、東京ブラボーを結成、デビュー。80年代にDJスタート。雑誌『ポパイ』『ホットドッグ・プレス』等でライターとしても活躍。藤原ヒロシとタイニー・パンクスを結成。雑誌『宝島』での連載『LAST ORGY』が話題となり「要チェック!」という流行語を生み出す。ニューヨークで衝撃を受けたヒップ・ホップを、いとうせいこう達と日本に伝導。日本初のヒップホップ/クラブ・ミュージック・レーベル「MAJOR FORCE」を、藤原ヒロシ、屋敷豪太、工藤昌之、中西俊夫と設立。スチャダラパー、ECD等を世に送り出す。90年代ソロアーティストとして活躍。21世紀、NIGOとA BATHING APEレーベル『APESOUNDS』、高橋盾と『UNDERCOVER』のサウンド、香港『SILLYTHING』クリエイティブ・ディレクション等。
【MAJOR FORCE PRODUCTIONS イベント出演情報】
GMB SATURDAY
MAJOR FORCE DJ SET(K.U.D.O & KAN TAKAGI)
日程:2025年7月26日(土)
会場:GINZA MUSIC BAR
住所:東京都中央区銀座7-8-13 ブラウンプレイス4F
TEL:03-3572-3666
OPEN/START 19:00 CLOSE 4:00
(*開始時間に関しては状況で前後する可能性あり。予めご了承ください)
公式サイト
Giles Peterson Presents – We Out Here Festival
開催日程:2025年8月14日〜17日
会場:Wimborne St Giles, Wimborne BH21 5NA, United Kingdom
公式サイト
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